из подполья

どこかで書ききれなかったことや、個人でやってる集まりの報告など。

京大保健診療所問題によせて

20211206若干の更新。
何かありましたらtwitterの@sciosagiまで。
以下、本文。
 
 京大の「当事者」(発達障害精神疾患、等々)は解放を切望する。しかし、いかなる解放なのか。我々はこの問題に答えなければならない。
 京都大学保健診療所は、学生証だけで診察を受けることができる学内の機関である。この保健診療所について、11月29日付の告示をもって実質的な「閉鎖」が宣言された。これを契機に保健診療所の存続を求める世論が形成されてきた。とりわけ、「神経科」受診のアクセシビリティの担保を求める声がこれである。「京大保健診療所の存続を求める会」(以下、「求める会」という。)なる団体が設立され、そこから「京都大学保健診療所を廃止しないで下さい」と題されたビラが頒布されている。まずは、この書面の訴えるところを確認しよう。この書面で求める会は、保健診療所神経科(以下、「神経科」という。)は「多くの学生にとって〔……〕本当に追い詰められた時に行くことができる最後のセーフティーネットです」と主張し、その根拠として次のように述べている。
保健診療所があれば予約なしでも当日初診で診てもらえたはずなのに、それが無いと、一番相談したい時期にただ一人で耐えることになります。また、学生が抱えやすい困難やその対処法をよく知っている医者に診てもらえるだろうという安心感もありません。
 すなわち、他の医療機関に比較してアクセシビリティがあるという点において、神経科は少なくとも学内における「最後のセーフティーネットである」という位置付けなのである。しかし、セーフティーネットとはなんであるか? これについては、前の箇所に書いてある事実確認に遡ることで確認したい。
精神科受診の心理的ハードルは高いものです。決して本人のせいではないのに、病に罹ってしまったことを親や友人に心配されるのが不安で、とうに病院に行くべき水準を超えているにも関わらず誰にも相談できずに抱えてしまう人は数多くいます。学内に神経科があることで、心理的ハードルが少しでも下がり、はじめて病院に相談して治療を始めることができます。
 求める会としては、学生は「病に罹ってしまったこと」を近親者に「心配されるのが不安」であるが、「学内に神経科があること」のために安心して「治療を始めることができ」るらしい。しかし、それは事実ではない。まず、普遍的段階から論ずる前に、個別的なエピソードにそくして語っておこう。
 
 私はASD/ADHD当事者である。2021年3月時点で診断が下りている。また、これとは別の診断書(診断名もASDを含まないもの)になるが、私の場合は「発病年月」を自分の生年月日に推定されている。すなわち、生まれたころから「病に罹って」おり、近親者に「心配されるのが不安」なまでもなく、「きちがい」としての処遇を受けてきたのである。「病に罹っ」たかどうかの自覚を迫られるまでもなく、私は病人として扱われ、排除され、小、中、高、大学に到るまでろくな生活を勝ち取ることのなかったのである(もちろんそれはマルクスのいう「相対的貧困」と呼ぶべきものに過ぎないのだが)。
 しかし、私は常に正常だと思っていた。私の論理は極めて真っ当なものであり、理解しない奴らが愚かなのだと。申し訳ないが、これは本気でそう思っている。流石に某自民党国会議員*1のように「認識が誤っている」と即断したり、某中世哲学研究者*2のように自分の勝手な想像を当てこすりするために「自己認識が足りない」と恫喝するほどの厚かましさは、残念ながら私にはない。反論されたらそれなりに引き受ける。だけどあとでネチネチと粘着的に文章を書き起こすだけのことだ。今書いている(正確にはタイプしているのだが)このテキストのように、である。正常な人間が異常と排除され、排斥されるのだ。それは私が悪いのではなく世界が、国家が、社会が悪いと小学校の時点で理解するのにそう時間はかからなかった。しかし、対処法がまるでわからなかった。大学に入ってようやく、ミシェル・フーコードゥルーズガタリを知ることによって、理論的武器を手に入れるに至ったに過ぎない*3。その点では、少なくとも理論的には松本卓也などのラカニアンと共有するところは多い。
 さて、この私が神経科を受けたことによって「心理的ハードルが少しでも下がっ」たかというと、そうではない。正直な話、私はしぶしぶ神経科治療に応じたまでだ。くだらない治療に付き合ってはいられないので、一応診察には出向いてやる、だが自分の好きなことだけを喋らせてもらう、という態度を貫徹させた。そうしている中で発狂し、緊急治療を受け、少しはまともに取り合うようになったに過ぎない。しかし、今でも社会を克服しない限り何も変えることはできないという思いは禁じ得ないのだ。少なくとも私のような高機能自閉症スペクトラム症候群当事者としては。かろうじて診察に立ち会ったひとが「良心的」だったから今でも診察を受けているまでのことだ(この「良心的」という語についてはあとで述べる)。
 もちろん、どこかの段階で抑うつ的になり身動きが取れなくなった人々について何かしら咎めるつもりはない(し、私にとってはおよそどうでもいい)。だが、その人たちが勝ち取ってきた特権を、私は引き受けることがないだろう。私は高機能自閉症スペクトラム症候群当事者なのだから。生まれた時からビョーキだったという烙印を押された私の苦痛を、憎悪を、恥辱を、健常者で偶発的に「病に罹っ」ただけのひとたちと共有できるとは、申し訳ないが、思えないのだ。神経科が存続することで良かれと思っているひととは、残念ながら、連帯できない。
 
 本稿ではさしあたり「精神疾患発達障害を少なくとも定型発達・健常者に比べてより精神医療にアクセスすべき人格であるとみなし、それに応じない者を異常なものとして扱う慣習」のことを総合して「治療文化」と呼ぶ。人々は精神医療に(しぶしぶながらでも)応ずる人を肯定的に評価し、セックスや喫煙や違法薬物で自らの精神的苦痛を和らげる(ある種のスティグマ化を恐れずに言えば)いわゆる「メンヘラ」と呼ばれる属性の当事者たちに侮蔑の眼差しを向けることはないだろうか? これも治療文化の内面化の一つである。そうしたひとがあまりに多い。「反ワクチン」の文脈でもそうだが、陰謀論であるなどの問題よりも先に「治療文化に合流していない」という一点で反治療文化を糾弾するひとが、むしろ左翼と呼ばれるひとの方に多いのは、私の思い違いだろうか。
 私はASD/ADHDの当事者であると述べた。私自身も投薬療法として、インチュニブなどで集中力を持続させ、あるいは炭酸リチウムで感情のゆらぎを抑えることに応じているが、喫煙者である。一日で一箱消費することが時々ある程度にはヘビースモーカーであるという自覚はある。人々は禁煙外来を受けろというだろう。そして禁煙外来を受けなかったら、弾劾するだろう。だが私には禁煙外来を受けない自由もあるし、ハイライトを吸うことによって日頃のストレスを解消(させることはないにしても先送りにする)自由もある。人々はその自由を承認しているというかもしれないが、何か一家言持とうとした時点で、情動面では何も容認できていない(あるいは、私の正当性を全く理解していない)。
 精神医学の権威を学内に配置することへの否定は、この治療文化の浸透への懸念として正当化することができるだろう。本稿では、とりあえず思いつく限りの論点を上げていく。
 
1/医療が市民社会ブルジョワ社会)のもとに成り立っていること
 この点は18世紀プロイセンにまで遡らなければならないだろう。カントにとって、上級学部の存立は聖典・法典とその解釈と医療行政の上に成り立っている。本来的に哲学の共同体であるところの大学では、それらに抗する運動体であることが求められる。明らかに医療は行政のものであり、市民社会の形成のための必要として成り立っているものである。少なくとも当時のプロイセンではそうしたコンセンサスが成立していた。例えば、ヘーゲルは『法哲学要綱』の236節補遺で次のように「衛生」に言及している。
福祉行政の行なう監督と事前の配慮が目的とすることは、個人を、個人的な目的の達成のために存在している一般的可能性と媒介することである。福祉行政は街路照明、橋の架設、日常必需品の価格措定、ならびに衛生に対して配慮しなければならない。*4
 この指摘が「ポリツァイ(威力)」に関する叙述の後に出てくることは特筆に値するが、さらにヘーゲルはこの配慮をめぐって二つの論が出てきていると述べる。「一方は、福祉行政はいっさいを監督すべきだと主張し、他方は、各人がそれぞれ他人の欲求に順応するであろうから、福祉行政は、これについて何一つ規定すべきではないと主張する」*5。もちろんこれは自由経済が公益を害するものではないという主張のもととなっている話であり、この両論はのちの近代経済学における二つの流派(ケインズ主義と新古典派)を想起させる。しかし、これと(反-)治療文化を重ねてはならない。ヘーゲルの文脈で言えば、(反-)治療文化の問題はさらに先の問題であるからだ。植民地主義の考察を経たのちに、ヘーゲルは職業団体への移行を前に次のように述べる。
福祉行政の行なう事前の配慮は、さしずめ、市民社会の特殊性のうちに含まれている普遍的なものを、もろもろの特殊的な目的と利益をもっている大衆を保護し安全にするための一つの外的な秩序ならびに対策として、実現しかつ維持する。大衆の特殊的な目的と利益はこの普遍的なものにおいてこそ成り立つからである。〔……〕ところが特殊性自身が、理念にしたがって、おのれの内在的利益のうちにあるこの普遍的なものを、おのれの意志と活動の目的および対象とすることによってこそ、倫理的なものが内在的なものとして市民社会帰ってくるのであって、これを実現するのが、職業団体の使命である。*6
 ヘーゲルを読む際の定石であるが、議論している対象が外的な媒介をもっているかぎりはまだ現実的ではなく、その外的なものを対象それ自身が引き受けることをもって、対象が次の段階に入ることでより真実らしいものに近づく、という図式がヘーゲルの議論の基本的骨子である(いわゆる弁証法)。ここではざっくり、市民社会が内部分裂した状態になってしまっている。その極致として現れるのが職業団体というもう一つの極だ。そこからヘーゲルは国家への歩みを進めていき、客観的精神の完成を見ることになる。さて、この箇所のヘーゲルにおいては「倫理的なもの」の還帰を実現させる契機として職業団体が設定されるが、この職業団体とは組合 Korporation の訳語である。すなわち、国家と市民社会(ここでは利害対立が絶えず発生する)との媒介項をなすものに他ならない。この段階に達する前のところに、医療行政は存在している訳である。
 したがって、次のように答えなければならない。少なくとも即自的に組合であるところの学生自治組織は、市民社会の限界を暴露し、それをもって限界を補完するという使命を全うしなければならない、と。少なくとも、精神疾患発達障害については、間違いなく医療行政に頼る以上に、組合の中で対処し克服していくべき領域である。医療行政に頼るということは、その分ジャコバン独裁的な二極体制を容認することになりかねない。医療行政に訴えるのはもっともだが、それに頼りきりになることは如何なものだろうか。ところが、この点はより根本的に、(精神)医学の権威性まで掘り下げて検討する必要があるだろう。
 
2/精神医学が(上からの)権力闘争の中で成立しているということ
 この点ばかりは本来ならばミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を参照しなければならないだろうが、入手のしやすさに鑑みて*7フーコー・コレクション』第6巻所収論文から引いていこう。
 「真理と裁判形態」という連続講演においてフーコーは、概して知はでっち上げの歴史であるという主張を、ニーチェから参照して提示する。すなわち、あらゆることにはまずもって起源Ursprungはなく、発明Erfindungがあるのであり、Erfindungは政治的意図が込められるものである、というものである。
認識は人間の最も古い本能などではない。あるいは逆に言えば、人間の振舞い、人間の嗜好、人間の本能のうちには、認識の萌芽のような何かは存在しないということです。実際、とニーチェは言っていますが、認識は本能と関係をもってはいるが、もろもろの本能のうちには現れることはできないし、ましてや他と同じような本能ではありえない。認識とはただ単に、諸々の本能の間のゲームや、対立や、接合、あるいは闘争と妥協の結果でしかない。*8
 認識は、デカルトのいうような「良識」の中に生まれてくるものではない(それだから彼は認識の正当化をめぐるツケを神という名をもつ他者に払わせているのではないか?)。そうではなく、権力争いの中で認識は形成されていくのである。この点はニーチェを引かなくとも得られることかに見えるが、さらにフーコーはそこからマルクス主義講座の諸状況などを想定しながら、次のように主張する。
私がこの講演で示したいと思っているのは、実際、生存の政治的ないし経済的条件は、認識の主体にとって遮蔽物でも障害でもなく、それを通して認識の主体が、したがって真理の関係が形成される当のものだということ、そしてそれはどうしてなのかということです。*9
 1973年、『アンチ・オイディプス』が出て一年経った時の講義において、ミシェル・フーコーは、この後、オイディプスを参照しながら真理の原初的な形態を確認し、その後中世以降へと時代を下っていく。
 ここで確認しておきたいのは、次の二点である。第一に、私たちが「病気」とするものについて明らかなのは、それが自ずから本性的に築き上げたものではないということである(非本質主義)。そうではなく、むしろ社会の中で構成されたものである(社会構築主義)ということだ。何か人間本性にとって適切ではないものとして病気が現れるのではない。さらに語用論的にいうのであれば、むしろ「〇〇病」という語彙そのものが社会でこれこれの方法をもって治療されるべきものとして措定されるのである。第二には、端的に、そうした策動、審判を内面化することによって初めて認識が成立する、ということである。概念構想は端的に確信から始まるものではない。いみじくもヘーゲルが明らかにしたように、それは歴史的発展において作り上げられていくものに他ならない。ニーチェの貢献はその加速化である。
 単に概念は社会的に構築されているから間違いだ、と言いたいのではない、概念をそのようなものであって概念だけをもって操作可能かもしれないと思い込んでいる我々の認識が間違っているのだ。そうではなく、概念の下支えをしている下部構造(経済的、物質的基盤)を爆破しなければならない。学内に精神医療機関を設置することは、その意味において、障害者の社会的包摂=排除と治療文化を進めることをやめない、反動勢力による闘争である。大学という権力と医療という権力が結託すれば、なんと恐ろしいことがおこるだろうか! 男どもの加害行為に抑圧されているひとが誤診され、ビョーキのひとのレッテルを貼られることだってある! そもそも、ビョーキって概念自体、病院があるから、そして病院で「労働力」をもたない人をビョーキってことにしてほしい資本主義の企てがあるから、存在してるものじゃないのかしら?
 もう少し掘り下げるべきかもしれないが、とりあえずこの辺にしておく。
 
3/医療が救える人はごくわずかであること
 松本俊彦の議論を想起されたい。医学という権威の暴力性そのものへの批判こそしないにしても、彼は現状の医学的なアプローチの妥当性に(少なくとも部分的に)懐疑的である。実際、精神医療に対して積極的に参加することのできない若者の多いことを、救急医療の事情に照らして指摘している。
救急医療従事者の多くが、自傷者に対して怒りや嫌悪感といった否定的な感情を抱いており、これに加えて、自傷を繰り返す若者のほうも、医療者に対してかなり挑戦的な態度——たとえば、「うるせえ」「放っておいてくれ」「関係ねえだろ」などといった暴言をとることが多く、医療者の側がメンタルヘルス支援へ紹介する気が失せてしまう場合が少なくないことが判明したのです。*10
 また、自傷者が境界性パーソナリティ障害と診断される若者であることが多い事情などを踏まえ、陽性転移が怒る可能性が懸念される。それに際して自傷者と「距離を取る」ことについて、松本は次のように指摘する。
この「距離をとれ」という助言の真の内容は、「相手の援助に没入するあまり、自分や相手の置かれた状況を、客観的かつ冷静に見ることができなくなっているから、それができるように援助体制を整えるべきだ」ということだと思います。そのためには、物理的・心理的に距離をとることが重要なのではなく、援助すべき相手に対して複数の援助者であたること、もしくは援助チームを作ることが必要なのです。*11
 すなわち、医療機関のみに頼ることは不十分である。そればかりか、かえって医療機関の中で陽性転移を生み出し、二次加害が発生する温床となりかねない。松本のこの主張からさらに敷衍するなら、少なくとも医療機関に必要以上の期待をすることを学生自治組織が率先して行う必要はないということだ。つまり、物理的な自傷行為への医療措置ならまだしも、それ以前の段階にあってはむしろ組織内での相互ケアによって解消していくほうを目指していくべきである。端的にうつ病などの精神疾患である以前に発達障害などの特性を併発している場合は、なおさらである。
 自分自身がいかなる環境に投企しているのであり、そこでいかなる存在のあり方を獲得しているかという実存論的なメタ認知が獲得されない限り、真にメンタルヘルスにおける「うまくやっていくこと」を勝ち取ることなど不可能である。この点はジャック・ラカンをはじめとする根源的にフロイトを読んできた系譜の臨床家たちも共有するところである。
 さらに松本によると、学生の10%近くが自傷経験があるという統計も明らかになっている。これを信じるならば、医療機関にアクセスして精神療法を受ける学生よりももっと多くの学生が身体的自傷によって精神的苦痛を和らげているということを推測することができよう。したがって、病院の「存続」では、かろうじて一部の学生との接点を医療従事者が勝ち取ることはあっても、社会全体を充満する根本的な問題は何一つ解決していないのだ。
 こうしたごく基本的なことは、「良心的な」精神医療従事者の中ではほとんど常識として共有されていることである。批判者は「ではなぜそれを仕事としているのか」と問いそれでもって論駁するだろうが、自らの仕事の限界を自覚しているだけマシである、とだけ答えておこう。良心的な、と言ったのはあくまでもこの人たちが自分たちが権威としての医学に阿って仕事をしているという自覚性においてのみであり、この人たちが治療に積極的であるか消極的であるかには関与しない。あくまで現在の体制の中でできうることをするための茶番として、投薬療法や認知行動療法をやっているまでだ。良心的である上に進歩的な精神医療従事は、もし世界的にオーティズム・ライツ運動が浸透する機運が高まり、医学以外の方法で「発達障害」(医学以外である限り、その語彙はもはや名辞矛盾だ)への社会的な介入が可能になれば、喜んで自らの仕事を投げ出し、統計学の学位でも取り直して新しくできた仕事をやり始めるだろう。
 したがって、医療体制が復旧すればよしとする考えは、あまりに近視眼的である。あたかもそうした主題化をしている求める会の議論は、少なくとも学生自治の文脈においては、不十分に過ぎると言わざるを得ない。精神科医療から漏れる少数者の中の少数者への抑圧をさらに加速させることに、学生自治の文脈で奏功することでもあるのだろうか。
 
4/「精神疾患」「発達障害」という概念/属性そのもののラベリングが可能であるという条件そのものが特権性を帯びていること
 この点は手短に済ませよう。女性ジェンダーや日雇い労働者の中にも、発達障害と認められる人は相応にいる。しかし、それらは無視されるか、診察の中ではスルーされるものである。他方で京都大学の少なくない学生たちは、そうした障害や疾患を認められることが可能となっている。それはなぜか。単に京都大学に障害者が多いからというわけではない。そうではなく、大学に障害をめぐる知見の権力が集中し、大学が知見を収奪しているからに他ならない。であるがゆえに、私は吉田本町の大学に通っているというただそれだけの理由で障害者になるかならないかのグレーゾーンに立っていられる。もし大学以外の他のところにいたら、診断などされただろうか?
 その限りにおいて、大学は特権性を帯びた場所である。健康科学センターの配置によって、その特権性は一つの物質的根拠を持ち、魂を持つようになり、したがって新しいイデオロギー(上部構造)を形成するようになる。この点を好意的に評価することは、自明ではないはずだ。
 
以上の4点をもとに、私は「求める会」に次のことを要求する。
1/成員で暗黙裡に共有されている「治療文化」の内面化を自己批判し、その内容を今後の版で反映すること。
2/要求内容に限らず、学生自治組織としてできうる相互ケアのプランを提示すること。自力で提示することが不可能ならば、権威(研究者)の協力を得ること。また提示に際しては、権威の協力を得た場合、誠実に権威を利用したことを明示すること。
 
 私は足を引っ張るつもりはない。ただ、精神医療という監獄から私そのものを解放したいだけだ。なぜ健常者どもが頭も悪いグズのくせに人間関係をやって支配者の顔をして我が物顔で大学を闊歩している一方で、私のようなまともで堅実で聡明な人間が排除され金を払ってまでキチガイとして扱われて、薬をもらわなければならないのか? まるで意味がわからない! この社会的構造そのものを糾弾しない限り、私は腹の虫がおさまらない。なぜ生理用品や低用量ピルに金を支払わなければならないのか? レイプされない環境を作ることの方が本質的だというのに? なぜ少数民族家系図を引っ張ってきて祭祀継承者であることを主張しなければならないのか? 和人がでっち上げた「祭祀継承者」それ自体に問題があったというのに? 何も変わりがないではないか! ああ、あらゆることごとくのナンセンス、ここに極まれり!
 制度があるからといって根本的な構造は克服できないし、問題を個人化するばかりだし、加害者は加害行為をやめないので、ちゃんと当事者の間で障害を解消していこうとする運動を形成していくことの方が大事だ。そもそも、特定の傾向を持つ人が発達障害などのレッテルを貼られて医療機関にアクセスしなければならない、金を払って薬をもらわなければならない、そうしなければ学校生活に参加できない、という事情自体がおかしい(そうしなくとも平気で学校に通い、くだらない青春を謳歌している連中がごまんといるというのに!)。求める会をはじめとする改良主義者たちは、この点を看過している点で不十分である。この点は、構造的には「女性」(あるいは子宮の部位を持つ個人)だけが不必要に生理用品を金を払って購入する必要があり、あるいはレイプされた時に強制避妊やピルの処方を受けざるを得ないなどのコストを支払わなければならないこととアナロジーが成り立つ。「レイプされない方法」ではなく、レイプが起こらない環境ができるよう啓発をしなければならない。タテカン訴訟はタテカンの将来的な立て方とセットで考えなければならない、等々。
 存続を求めるな、無償化を求めよ! 万人に薬物のアクセス権を解放せよ! 病院の特権を解体せよ!
 

鷺(京大学生・ASD/ADHD当事者)

*1:どうやら歴代最長内閣の総理大臣だったらしいが、ここでは問題ではない。

*2:どうやら学生担当理事を歴任していたらしいが、やはりここでの問題ではない。

*3:残念ながら、それらを荒唐無稽だと断ずる人々が跋扈している状況には、甚だ嘆かわしいという他にあるまい。世の中簡単には変わらないものだ。

*4:ヘーゲル、『法の哲学II』、藤野・赤沢訳、中央公論、2001年、189-190頁。

*5:ibid.

*6:ヘーゲル、同書、205-206頁

*7:私自身入手していないし、今後読むこともないかもしれない。

*8:フーコー・コレクション』第6巻、筑摩書房、2006年、21頁。

*9:同書、33頁。

*10:松本俊彦、『自傷行為の理解と援助』、日本評論社、2014年。

*11:同書。