из подполья

どこかで書ききれなかったことや、個人でやってる集まりの報告など。

前略 20210929

※致命的な誤字脱字があったので、訂正。

doi.org

 何か見たついでにこの記事を読む。「なぜ、人間だけが家族と共同体という、相反する論理を持った社会を作れたのか。そこには文化ではなく、人類が類人猿との共通祖先から分かれ、独自な進化の道を歩んできた生物学上の理由が潜んでいる。」という設定の下での行論のようだ。とりあえず順を追ってみていく。
 まず、出産に長いスパンを要する類人猿の生活史戦略に多産を掛け合わせることで、「家族と共同体からなる人間独自の社会組織を作り〔……〕70億を超える人口を抱えるまでに発展する素地を築いた」とあるが、ここは注意しておきたい。この戦略だけではよくて1億程度しか増加しないはずなので、他の要素が必要のはず。なるほど、著者は単純食性では種としての生存ができなかったことを挙げ、多産によってこれを克服し、霊長類の繰り出すことのなかった草原地帯に進出したと述べる。だが、年毎の世界人口増加量を見ても「70億を超える人口を抱えるまでに発展する」には早くとも19世紀を俟たなければならない。結論を急げば、資本制の下で進行した産業社会の中で決定的な人口増加が起こったわけであり、これが決定打となる。すなわち、生活史戦略と多産のシナジーは、現代の人間社会に至るための必要条件ではあっても十分条件ではない。あくまでも些事に思われるかもしれないが、この記事ではそれなりに重要な論点となる。

ourworldindata.org

 続く箇所では人間の祖先が草原に出た場面が描かれるが、省略。
 続いて、霊長類が共有してきたインセスト回避(育て親と性交渉しない)を巡って解説が進む。一般の霊長類の場合は、制度に頼るまでもなく行動の段階でインセストを回避することに成功している。霊長類の場合は実際の家系にかかわらず、非母系社会単位で一つの共同体が形成されるが、母系家族で子育てを通してインセストが回避される一方、父系家族ではインセストが回避されない。これを回避するために、メス個体が非母系社会の間を移動することになっている。だが、家族と共同体が混在するホモ・サピエンスの場合は、インセストを回避するための行動をしない。これを避ける制度が必要になってくる。すなわち、インセスト回避が「制度として必要だったのは、複数の家族が集まって共同体を作り、子育てを家族間の共同作業としたから」だと著者の推察するところである。
 以上の叙述を踏まえ、著者はインセスト回避という条件下で性別役割が個体毎に代替可能であり、その条件ゆえに人間家族が後天的に形成され多様になることを確認する。
 是に於て、注目すべき箇所がある。長めに引いておこう。

人間の家族と共同体は、類人猿から引き継いだゆっくりした子供の成長と、危険な環境に暮らして獲得した多産を成り立たせるための社会組織である。そこでは外婚制を維持するためにインセストを制度化して、女性の移動を促進する仕組みを作り出す必要があった。しかし、もともと生後の子育てを介した経験によって後天的に作られるこの性向は、育ての親を重視した代替可能な家族を人間にもたらした。

 記事中で確認されたように、霊長類の生活史戦略と多産のシナジーを成功させるための社会組織として、人間は自らの家族/共同体を構成する。この家族/共同体はそれ自体が混在するためにインセストを制度化する他になく、それによって意図的に女性を移動させてきた。これが逆説的であるのは、生みの親ではなく育ての親の関係によって家族が規定されるためである。一般の霊長類の場合は、育ての親の場所は共同体にあった。しかし、家族/共同体の混在する人間においては、まずもって家族の成立段階から親が後天的に生起される。子供の生まれる前から親が最初からあるのではなく、子供が生まれた後になってはじめて親子関係が生成されるのだ。著者はあえて主張していないが、この反転こそが人間社会において本質的である。しかし、この時点で著者が看過していることだが、我々は次のように言わなければならないだろう。その家族はもはや自然のものではなく、共同体の中で規定されている制度の上で生成された、人工的・文化的なものではなかろうか。我々の家族成立過程においては、いかなる本質主義も、いかなる自然主義も機能しうるだろうか。
 それにもかかわらず、ジェンダーフリー社会について著者は「家族と共同体が人間に独特な繁殖と成長の特徴によって生み出されたという進化の歴史を忘れなければ、子供の成長に支障は起こらない。まさに、人間の自然と文化をつなぐ社会を構想するところに、現代のジェンダーを考える意義はあると思う」と認定し、記事を閉じている(強調引用者)。この記事で「自然」という語彙が現れたのは、この箇所を除けば冒頭の「ジェンダーという自然と文化をつなぐ概念」という箇所の一つだけであることに注意されたい。これらの「自然」という語彙の使用は、上野千鶴子の『家父長制と資本制』(岩波書店)を通してジェンダー論をほんの僅かにかじった程度の私でさえ違和感を禁じ得なかった。明らかにジェンダーと呼ばれる概念は「社会的・文化的な性差」であり、自然とは独立したものである。つまり、「自然と文化をつなぐ概念」としてのジェンダーなるものはほぼ名辞矛盾に等しい。インターネットの字引きさえ引けばすぐに誤謬だとわかるような部分を、わざと残しているあたりに、著者の策謀を邪推せざるを得ない。
 先ほどわれわれが検討した箇所を踏まえるなら、家族はすでに社会の基礎単位でありながら、共同体の中で規定された制度の上で形成された人工物であり、とりわけ育て親は代替可能なものとして反転されている。著者は「血縁関係のない親でも、片親でも、同性婚の親でも、家族と共同体という共同子育ての仕組みがあれば」子供が健康に育つと補足はしているが、著者自身が根拠としているのはあくまでも女性の移動である。先ほど引用した箇所を再び引いておく。「外婚制を維持するためにインセストを制度化して、女性の移動を促進する仕組みを作り出す必要があった」(強調引用者)。すなわち著者がいくらP/Cに配慮したエクスキューズをカマしていようが、著者の論拠として導かれるのは女性を贈与の媒介物とみなすホモソーシャルでしかない。
 また、冒頭でも確認した通り、近代の人口爆発は自然に成立したものではない。人口爆発は明らかに、家父長制とそれと共謀関係を結んでいる資本制の要請から、一夫一婦制が敷かれ、そのもとでの労働力再生産が行われたことによる。ここでもまた家父長制という形態によって現れるホモソーシャルが前提となっている。否応無くホモソーシャル的社会を作らざるを得ない人類の生態学・人口学の知見をもって「現代のジェンダーを考える意義」として「人間の自然と文化をつなぐ社会」という構想をブチあげることは、そもそも文化に接続するための「自然」が何のことか明らかでないことも含め、全くもって意味が通らない。
 ここまでずっと著者名を明かさなかった(リンクを踏めばすぐにわかる)が、同記事の著者は「進歩的な」人物として某大学前総長に就任された人物である。この人物は退官したのちも同大学に出講しにくるという。何かといえば「ジェンダー論」だそうだ。霊長類における性の多様性を講義するということだが、ジェンダー論講義を行う講師としてこの人物を選ぶのは、果たして適切な人選と言えるのか。またここでは触れないが、同記事の著者が早朝をしていた当時、同大学は戦前の植民地主義的研究をめぐって訴訟を受けている。これについて、当時総長としてのいかなる弁解もなかったことは、明らかに「進歩的」というキャラクターからは程遠いと認めないわけにはいくまい。
「多様性は自然から見ても本質的だ」という主張は通俗科学などで散々目にするが、これらは性(ジェンダー)とその抑圧構造が社会的に構成されたものであるという前提が欠落しているという一点において、特別な有益性を持つものとは言い得ないだろう。むしろわれわれは次のことに焦点を当てているはずだった。類的存在が抑圧、価値転倒(搾取)において形成され、あるいはアイデンティティとして登記され、あるいは完全に忘却される、等々、その概念形成の過程を歴史的(かつ、物質的基盤をたより)にした分析に基づいて明らかにしていくこと。超歴史的な多様性なるものは存在しないということをあえて提示することは、本稿を閉じるに当たって一定の価値をもたらすだろうと思う。