из подполья

どこかで書ききれなかったことや、個人でやってる集まりの報告など。

通り過ぎてきたもの #0

 この街にはいけず石がいたるところにある、と彼が言う。桜の樹の下には死体が埋まってゐる、とでも聞いたかのような呆然とした顔をわたしはしていたのだろう。

 いけず石と呼ばれる石がある。京都の言葉で「意地悪な」くらいの意味をもつ形容詞を冠したこの石は、京都の路地の随所に点在する。それらは撤去されることもなく、路地で自らの存在をかたくなに訴えるわけでもなく、ただ交差点の角や家の脇に置かれている。一説によると車が住居の壁を擦ることを避けるために意図的に設置されているものであるとも言われるが、これを「いけず」と呼ぶのは、自動車を運転する人にあっては、なるほど言い得て妙なのかもしれない。

 新年度が始まるたびに大学には多くの新入生が集まる。新入生は明るく華やかなキャンパスライフを謳歌できる様々なアイコン(サークル、クラス、ゼミ、等々)への参加に駆り立てられる。在学生たちは、自分たちの所属する集団へと新入生を迎え入れ、組織を充実させることについてあれやこれやと画策する。利害が一致する。単に開講のためのガイダンスさえすれば良いものを、教員は学生生活のためのtipsを丁寧に話し始める。少し皮肉っぽい描写だが、これが大学の春で成立しているだいたい風景と見てよい。しかし、と思う。それらの生活はまことのものなのだろうか? ちょうどランボーが一人の未亡人に語らせる惨憺たる生活ほどではないにせよ、私たちは浮き世に行きている感を否定しきれない。

 もちろん浮世を浮世として「ノリつつシラけ、シラけつつノ」るシニカルさをもって、私的生活と知の戯れにおいて自らの生を完結させることもできる。下世話な話だが、それで得することも多い。だが、そこで私たちは何かを通り過ぎている感じがする。通り過ぎて行きながら、最終的に私たちは卒業式を迎え、振袖や袴で着飾って正門前に長蛇の列をなして並んで記念写真を取ることのために大学に通い続ける他にないのだろうか?
 他方、まことの生活にはルックス、コミュ力、スキル、等々が必要だ、と私たちの欠如を煽る立場がある。そしてそれらが充実すればあるいはまことの生活を獲得できるだろう、と文明の利器が手渡される(そのほとんどがApple製品であることは言うまでもない)。こうしたものの「できなさ」(欠如)を満足すれば利益が得られるという「神話」はあまりに多く広まり過ぎている。そんな日はこない、と断定的に言うことはできないが、利益とされるものの多くは、だいたい後の祭りになってからわかってくるものでしかない。合目的化された「教練」への過剰適応は、果たしてほんとうに合理的なのだろうか。またも私たちは通り過ぎていく。何を?

 他者に目を向けることはある種の好奇心や冷やかしであることが多い。だがその立場で見ているのは他なるものであり、他者それ自体ではない。社会の中で跋扈する数多くの「トレンド」として消費される「他者」は依然として、それを他者として承認できる人々の側にある。美徳について語るとき、ラ・ロシュフコーは「自己愛」を引き合いに出す。換言するなら、美徳を自己愛によって基礎づける。ラ・ロシュフコーからさらに一歩進めば、「他者」を「他者」として語ること、それは一つの特権的な身振りなのではなかろうか。
 他方、属性とそれが帰属するとされる物体との微妙な断絶を自然主義は容易に通り越す。少なからぬ科学が今もなお自然主義的ないし素朴実在論的なアプローチで講義される。科学の論理それ自体に内在しているはずだった(存在と属性との峻別を含めた)数々の批判的な運動が、その研究者や使用者によって等閑にされることは、否定することがむつかしい。自然主義を自己愛の持ち物だと喝破することはあまりにも粗暴な論理であるが、自然主義、自己愛という二つの立場は「他なるもの」への向き合い方において共通の礎があるかに見える。

 この街にはいけず石がいたるところにある。彼がその話をするまで、いけず石と呼ばれるものの存在も、それが大学のあるこの街に数多くあることも、私の知るところではなかったし、また想像しうるものでもなかった。私たちの社会では、少なからず私たちの通り過ぎてしまっているものがあるらしい。あるいは翻って、私たちは単にいけず石なのかもしれない。自分たちがいけず石であることをついに自覚することがないようにするために、いけず石を他者化し、そして石はそれ自体石として、石に帰属する本質を当てこすりして、通り過ぎていくことを絶えず欲望しているのかもしれない。それはほんとうにまことの生活のものなのだろうか? もう少し具体的に言うなら、私たちがあえて大学に入学し、エリートとしての「就職活動」を行い、高度な経済人として生きていくことが、私たちの宿命なのだろうか? それは階級復帰であることは言うまでもない。しかし、そうしなければ生き残れないという強迫観念を、少なからぬ人は捨てやることができないまま卒業していく。なぜ私たちはこうも駆り立てられるのだろうか。卵巣の市電に乗り続けながら社交を続けて終わる人生でなければならないと私が思うのは何故なのか。遡らなければならない。神秘を開き神秘を現実的なものとして回収するために。