из подполья

どこかで書ききれなかったことや、個人でやってる集まりの報告など。

20220426_あるきはじめる大学(#ある大)_代表挨拶

私、鷺志緒が代表を務めている「アドソキア」で、時計台大ホールを借りたイベント「あるきはじめる大学」Opening Ceremonyを実施しました。以下に提示するのは、その際に私が発言した内容です。一部、当日の科白通りではない箇所もありますが、概ねの内容を反映しています。…………

 

本日はお集まりいただきありがとうございます。この「あるきはじめる大学」の運営母体「アドソキア」の代表として挨拶をしろ、と言われました。ちょっと何を話したものか考えていたのですが、思いつかなかったので、このプロジェクトを巡って私がモチベーションとしているものを話そうと思います。

「大学に出会う、街に出会う」という副題をつけました。これは、二つのことを言っているようにも見えます。つまり、一方では街が大学に、他方では大学が街に、という二つの現象を表しているかに見えます。しかし、私の意図においては、結局同じことを言っています。それというのは、どちらにおいても、大学を社会化し、大学が街であり、街が大学であるような、私たちが全く想像もしたことのないような仕方で大学ないしそこでなされる知的活動を提唱しようとしているからです。ここで大学は、街の集会場、マイケル・ハートの言うところの「コモン」に高まります。
現代は疫病も戦争も克服された、という希望的観測がいくつかの著述家によってなされたつかのま、2020年代は疫病と戦争とともに始まった。疫病は医療行政として、戦争は軍隊として、それぞれ国家と関わるエレメントであり、その動きに(たとい間接的にせよ)私たちの生活はつねに影響を受け続けます。(日本に限って言えば)「国立大学」もまた、国家との従属関係の中で成立し、そして現在もその中で生き続けています。その極致に「大学ファンド」があります。しかし、ボローニャやパリで、あるいはベルリンで始まった「大学」がそうであったように、国家とは従属で結ばれるものではありません。国立大学の多くは(始原的に)国家から莫大な資本を獲得して建設され、今なお国家資本との結びつきとは切っても切り離せないかに見えます。その中で私たちは、ある意味で国家資本に利するべく必要以上に労力を割き、研究を制限しています。学振や科研費の書類などは数ある例のうちの一つに過ぎません。ところで、大学はたんに国家から無条件の価値を供与され、なおかつ自らの活動について自由である「特権」的な場所にほかならない。私たちが混乱するのは、大学がこの特権と同時に従属を擁しているからです。しかし、大学がより豊かな知的活動の場所となるためには、従属の解消だけでは済まされない。
私たちには国家とは別の結びつきの中で「大学」を把握する余地がある。私たちは、大学で仕事し学んでいるはずが、いまだ大学の社会的存在を捉え損なうことをやめない。それと同時に、私たちはあらゆる教養=形成 Bildung を大学でやればよろしいと思い込んでいます。大学で学べば多少賢くなるだろう、成長を得られるだろうと。実を言うと、私たちが大学を通して生活していくうちに明らかになってきたように、多くの学びは大学で獲得されるものではない。むしろ大学から周縁化され、社会をうごめいている潜在的な語りの各々に特異的な強度があり、私たちはそこから多くを学んでいるのだ。知について起源Ursprungではなく発明Erfindungという言葉を使った点でニーチェは全くもって正しい。大学に知があるかに見えるのは、あくまでも大学に知があるという幻想がゆえに大学と大学人に知が集積されただけのことだった。私は真理を語っているかに見えるのは、私がこの教壇に立ち、語っているからです。もちろんこの倒錯を克服するには、一筋縄でいかないでしょう。大学をめぐるこの成長神話を私たちは錯覚として解きほぐし、潜在的であり続けた知を私たちは育んでいかねばなりません。
したがって、私たちは次のことを目指さねばならない。「アドソキア=あつまろう」という号令を掲げ、社会的な流通の間隙や境界線に止まらざるを得ない、まだ見ぬ他者たちとの出会いを交わすことを。その実践が大学で実行されることを、私たちはいかなる躊躇いもなく受け入れる用意があります。「哲学との交流は人生の日曜日と見なされうる」と言ったヘーゲルをはじめ、近代のプロイセンドイツで大学が成立する頃、多くの著述家が「人生の日曜日」というアイデアを考えていました。それは私たちの労働や生活で看過している規定を捉える現場への要請に他なりません。今日、私たちが社会的意識として捉えている「大学」の規定性を乗り越え、社会的存在として私たちの「大学」との関わりを把握し、そして「大学」を根本において——諸個人にそくして——捉え返すこと。
ここで私たちが「街と大学」というテーマを打ち立てるのは、必ずしもとっさの思いつきでできているものではありません。文字通りに私たちはuniversitas、すなわち「一に舞い戻ること」を目指そうとする上で、私たちは否定的契機としての「街/大学」という区別を極限まで追いかけなければならない。その末に、私はここで次のように宣言することができるでしょう。「大学」は歩き始める。いつ始まるかわからないこの出来事を、私は一つの祈りとして提示するのです。私が一つだけ言えるとしたら、ただ、この「アドソキア」だけなのです。私は個別にあなたに呼びかけている。いや、私自身なのかもしれない。しかし、ここで私は集まることを強制するのではない。ただ単に、社会的意識の間隙や境界線のただなかで彷徨えるひとが、自分の「主体」を概念把握し、同時に集まれる場所を大学に創出することを待望するとに過ぎない。主体、それは見いだされようとしてついに発見されないものです。それこそ間隙にしか見出され得ず、しかし発見されようとするとすぐに見過ごされてしまう残像です。人生のうち生産過程に属する労働の時間にも、「主体的」という言葉が使われますが、それは残像に過ぎないのです。レンズの内側にあるものを、私たちは日曜日に探すことができるだろう。それはひどく退屈でつまらないものかもしれない。あれか、これかという二者択一ではなく、リゾームとしか言いようのない何かであり、それゆえに捉えがたい。しかし、うまくやっていくことなら多分できる。そのための空間を、集まるための空間を、まだ見ぬ地平を、大学に待望する。しかしその空間、地平は、現在の大学が現象しているような仕方でのツリーではなく、むしろリゾーム的なものだろう。複数的な磁場のなかで。
アドソキア、アドソキア、私はそう呟きながら、この挨拶を閉じよう。

京大保健診療所問題によせて

20211206若干の更新。
何かありましたらtwitterの@sciosagiまで。
以下、本文。
 
 京大の「当事者」(発達障害精神疾患、等々)は解放を切望する。しかし、いかなる解放なのか。我々はこの問題に答えなければならない。
 京都大学保健診療所は、学生証だけで診察を受けることができる学内の機関である。この保健診療所について、11月29日付の告示をもって実質的な「閉鎖」が宣言された。これを契機に保健診療所の存続を求める世論が形成されてきた。とりわけ、「神経科」受診のアクセシビリティの担保を求める声がこれである。「京大保健診療所の存続を求める会」(以下、「求める会」という。)なる団体が設立され、そこから「京都大学保健診療所を廃止しないで下さい」と題されたビラが頒布されている。まずは、この書面の訴えるところを確認しよう。この書面で求める会は、保健診療所神経科(以下、「神経科」という。)は「多くの学生にとって〔……〕本当に追い詰められた時に行くことができる最後のセーフティーネットです」と主張し、その根拠として次のように述べている。
保健診療所があれば予約なしでも当日初診で診てもらえたはずなのに、それが無いと、一番相談したい時期にただ一人で耐えることになります。また、学生が抱えやすい困難やその対処法をよく知っている医者に診てもらえるだろうという安心感もありません。
 すなわち、他の医療機関に比較してアクセシビリティがあるという点において、神経科は少なくとも学内における「最後のセーフティーネットである」という位置付けなのである。しかし、セーフティーネットとはなんであるか? これについては、前の箇所に書いてある事実確認に遡ることで確認したい。
精神科受診の心理的ハードルは高いものです。決して本人のせいではないのに、病に罹ってしまったことを親や友人に心配されるのが不安で、とうに病院に行くべき水準を超えているにも関わらず誰にも相談できずに抱えてしまう人は数多くいます。学内に神経科があることで、心理的ハードルが少しでも下がり、はじめて病院に相談して治療を始めることができます。
 求める会としては、学生は「病に罹ってしまったこと」を近親者に「心配されるのが不安」であるが、「学内に神経科があること」のために安心して「治療を始めることができ」るらしい。しかし、それは事実ではない。まず、普遍的段階から論ずる前に、個別的なエピソードにそくして語っておこう。
 
 私はASD/ADHD当事者である。2021年3月時点で診断が下りている。また、これとは別の診断書(診断名もASDを含まないもの)になるが、私の場合は「発病年月」を自分の生年月日に推定されている。すなわち、生まれたころから「病に罹って」おり、近親者に「心配されるのが不安」なまでもなく、「きちがい」としての処遇を受けてきたのである。「病に罹っ」たかどうかの自覚を迫られるまでもなく、私は病人として扱われ、排除され、小、中、高、大学に到るまでろくな生活を勝ち取ることのなかったのである(もちろんそれはマルクスのいう「相対的貧困」と呼ぶべきものに過ぎないのだが)。
 しかし、私は常に正常だと思っていた。私の論理は極めて真っ当なものであり、理解しない奴らが愚かなのだと。申し訳ないが、これは本気でそう思っている。流石に某自民党国会議員*1のように「認識が誤っている」と即断したり、某中世哲学研究者*2のように自分の勝手な想像を当てこすりするために「自己認識が足りない」と恫喝するほどの厚かましさは、残念ながら私にはない。反論されたらそれなりに引き受ける。だけどあとでネチネチと粘着的に文章を書き起こすだけのことだ。今書いている(正確にはタイプしているのだが)このテキストのように、である。正常な人間が異常と排除され、排斥されるのだ。それは私が悪いのではなく世界が、国家が、社会が悪いと小学校の時点で理解するのにそう時間はかからなかった。しかし、対処法がまるでわからなかった。大学に入ってようやく、ミシェル・フーコードゥルーズガタリを知ることによって、理論的武器を手に入れるに至ったに過ぎない*3。その点では、少なくとも理論的には松本卓也などのラカニアンと共有するところは多い。
 さて、この私が神経科を受けたことによって「心理的ハードルが少しでも下がっ」たかというと、そうではない。正直な話、私はしぶしぶ神経科治療に応じたまでだ。くだらない治療に付き合ってはいられないので、一応診察には出向いてやる、だが自分の好きなことだけを喋らせてもらう、という態度を貫徹させた。そうしている中で発狂し、緊急治療を受け、少しはまともに取り合うようになったに過ぎない。しかし、今でも社会を克服しない限り何も変えることはできないという思いは禁じ得ないのだ。少なくとも私のような高機能自閉症スペクトラム症候群当事者としては。かろうじて診察に立ち会ったひとが「良心的」だったから今でも診察を受けているまでのことだ(この「良心的」という語についてはあとで述べる)。
 もちろん、どこかの段階で抑うつ的になり身動きが取れなくなった人々について何かしら咎めるつもりはない(し、私にとってはおよそどうでもいい)。だが、その人たちが勝ち取ってきた特権を、私は引き受けることがないだろう。私は高機能自閉症スペクトラム症候群当事者なのだから。生まれた時からビョーキだったという烙印を押された私の苦痛を、憎悪を、恥辱を、健常者で偶発的に「病に罹っ」ただけのひとたちと共有できるとは、申し訳ないが、思えないのだ。神経科が存続することで良かれと思っているひととは、残念ながら、連帯できない。
 
 本稿ではさしあたり「精神疾患発達障害を少なくとも定型発達・健常者に比べてより精神医療にアクセスすべき人格であるとみなし、それに応じない者を異常なものとして扱う慣習」のことを総合して「治療文化」と呼ぶ。人々は精神医療に(しぶしぶながらでも)応ずる人を肯定的に評価し、セックスや喫煙や違法薬物で自らの精神的苦痛を和らげる(ある種のスティグマ化を恐れずに言えば)いわゆる「メンヘラ」と呼ばれる属性の当事者たちに侮蔑の眼差しを向けることはないだろうか? これも治療文化の内面化の一つである。そうしたひとがあまりに多い。「反ワクチン」の文脈でもそうだが、陰謀論であるなどの問題よりも先に「治療文化に合流していない」という一点で反治療文化を糾弾するひとが、むしろ左翼と呼ばれるひとの方に多いのは、私の思い違いだろうか。
 私はASD/ADHDの当事者であると述べた。私自身も投薬療法として、インチュニブなどで集中力を持続させ、あるいは炭酸リチウムで感情のゆらぎを抑えることに応じているが、喫煙者である。一日で一箱消費することが時々ある程度にはヘビースモーカーであるという自覚はある。人々は禁煙外来を受けろというだろう。そして禁煙外来を受けなかったら、弾劾するだろう。だが私には禁煙外来を受けない自由もあるし、ハイライトを吸うことによって日頃のストレスを解消(させることはないにしても先送りにする)自由もある。人々はその自由を承認しているというかもしれないが、何か一家言持とうとした時点で、情動面では何も容認できていない(あるいは、私の正当性を全く理解していない)。
 精神医学の権威を学内に配置することへの否定は、この治療文化の浸透への懸念として正当化することができるだろう。本稿では、とりあえず思いつく限りの論点を上げていく。
 
1/医療が市民社会ブルジョワ社会)のもとに成り立っていること
 この点は18世紀プロイセンにまで遡らなければならないだろう。カントにとって、上級学部の存立は聖典・法典とその解釈と医療行政の上に成り立っている。本来的に哲学の共同体であるところの大学では、それらに抗する運動体であることが求められる。明らかに医療は行政のものであり、市民社会の形成のための必要として成り立っているものである。少なくとも当時のプロイセンではそうしたコンセンサスが成立していた。例えば、ヘーゲルは『法哲学要綱』の236節補遺で次のように「衛生」に言及している。
福祉行政の行なう監督と事前の配慮が目的とすることは、個人を、個人的な目的の達成のために存在している一般的可能性と媒介することである。福祉行政は街路照明、橋の架設、日常必需品の価格措定、ならびに衛生に対して配慮しなければならない。*4
 この指摘が「ポリツァイ(威力)」に関する叙述の後に出てくることは特筆に値するが、さらにヘーゲルはこの配慮をめぐって二つの論が出てきていると述べる。「一方は、福祉行政はいっさいを監督すべきだと主張し、他方は、各人がそれぞれ他人の欲求に順応するであろうから、福祉行政は、これについて何一つ規定すべきではないと主張する」*5。もちろんこれは自由経済が公益を害するものではないという主張のもととなっている話であり、この両論はのちの近代経済学における二つの流派(ケインズ主義と新古典派)を想起させる。しかし、これと(反-)治療文化を重ねてはならない。ヘーゲルの文脈で言えば、(反-)治療文化の問題はさらに先の問題であるからだ。植民地主義の考察を経たのちに、ヘーゲルは職業団体への移行を前に次のように述べる。
福祉行政の行なう事前の配慮は、さしずめ、市民社会の特殊性のうちに含まれている普遍的なものを、もろもろの特殊的な目的と利益をもっている大衆を保護し安全にするための一つの外的な秩序ならびに対策として、実現しかつ維持する。大衆の特殊的な目的と利益はこの普遍的なものにおいてこそ成り立つからである。〔……〕ところが特殊性自身が、理念にしたがって、おのれの内在的利益のうちにあるこの普遍的なものを、おのれの意志と活動の目的および対象とすることによってこそ、倫理的なものが内在的なものとして市民社会帰ってくるのであって、これを実現するのが、職業団体の使命である。*6
 ヘーゲルを読む際の定石であるが、議論している対象が外的な媒介をもっているかぎりはまだ現実的ではなく、その外的なものを対象それ自身が引き受けることをもって、対象が次の段階に入ることでより真実らしいものに近づく、という図式がヘーゲルの議論の基本的骨子である(いわゆる弁証法)。ここではざっくり、市民社会が内部分裂した状態になってしまっている。その極致として現れるのが職業団体というもう一つの極だ。そこからヘーゲルは国家への歩みを進めていき、客観的精神の完成を見ることになる。さて、この箇所のヘーゲルにおいては「倫理的なもの」の還帰を実現させる契機として職業団体が設定されるが、この職業団体とは組合 Korporation の訳語である。すなわち、国家と市民社会(ここでは利害対立が絶えず発生する)との媒介項をなすものに他ならない。この段階に達する前のところに、医療行政は存在している訳である。
 したがって、次のように答えなければならない。少なくとも即自的に組合であるところの学生自治組織は、市民社会の限界を暴露し、それをもって限界を補完するという使命を全うしなければならない、と。少なくとも、精神疾患発達障害については、間違いなく医療行政に頼る以上に、組合の中で対処し克服していくべき領域である。医療行政に頼るということは、その分ジャコバン独裁的な二極体制を容認することになりかねない。医療行政に訴えるのはもっともだが、それに頼りきりになることは如何なものだろうか。ところが、この点はより根本的に、(精神)医学の権威性まで掘り下げて検討する必要があるだろう。
 
2/精神医学が(上からの)権力闘争の中で成立しているということ
 この点ばかりは本来ならばミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を参照しなければならないだろうが、入手のしやすさに鑑みて*7フーコー・コレクション』第6巻所収論文から引いていこう。
 「真理と裁判形態」という連続講演においてフーコーは、概して知はでっち上げの歴史であるという主張を、ニーチェから参照して提示する。すなわち、あらゆることにはまずもって起源Ursprungはなく、発明Erfindungがあるのであり、Erfindungは政治的意図が込められるものである、というものである。
認識は人間の最も古い本能などではない。あるいは逆に言えば、人間の振舞い、人間の嗜好、人間の本能のうちには、認識の萌芽のような何かは存在しないということです。実際、とニーチェは言っていますが、認識は本能と関係をもってはいるが、もろもろの本能のうちには現れることはできないし、ましてや他と同じような本能ではありえない。認識とはただ単に、諸々の本能の間のゲームや、対立や、接合、あるいは闘争と妥協の結果でしかない。*8
 認識は、デカルトのいうような「良識」の中に生まれてくるものではない(それだから彼は認識の正当化をめぐるツケを神という名をもつ他者に払わせているのではないか?)。そうではなく、権力争いの中で認識は形成されていくのである。この点はニーチェを引かなくとも得られることかに見えるが、さらにフーコーはそこからマルクス主義講座の諸状況などを想定しながら、次のように主張する。
私がこの講演で示したいと思っているのは、実際、生存の政治的ないし経済的条件は、認識の主体にとって遮蔽物でも障害でもなく、それを通して認識の主体が、したがって真理の関係が形成される当のものだということ、そしてそれはどうしてなのかということです。*9
 1973年、『アンチ・オイディプス』が出て一年経った時の講義において、ミシェル・フーコーは、この後、オイディプスを参照しながら真理の原初的な形態を確認し、その後中世以降へと時代を下っていく。
 ここで確認しておきたいのは、次の二点である。第一に、私たちが「病気」とするものについて明らかなのは、それが自ずから本性的に築き上げたものではないということである(非本質主義)。そうではなく、むしろ社会の中で構成されたものである(社会構築主義)ということだ。何か人間本性にとって適切ではないものとして病気が現れるのではない。さらに語用論的にいうのであれば、むしろ「〇〇病」という語彙そのものが社会でこれこれの方法をもって治療されるべきものとして措定されるのである。第二には、端的に、そうした策動、審判を内面化することによって初めて認識が成立する、ということである。概念構想は端的に確信から始まるものではない。いみじくもヘーゲルが明らかにしたように、それは歴史的発展において作り上げられていくものに他ならない。ニーチェの貢献はその加速化である。
 単に概念は社会的に構築されているから間違いだ、と言いたいのではない、概念をそのようなものであって概念だけをもって操作可能かもしれないと思い込んでいる我々の認識が間違っているのだ。そうではなく、概念の下支えをしている下部構造(経済的、物質的基盤)を爆破しなければならない。学内に精神医療機関を設置することは、その意味において、障害者の社会的包摂=排除と治療文化を進めることをやめない、反動勢力による闘争である。大学という権力と医療という権力が結託すれば、なんと恐ろしいことがおこるだろうか! 男どもの加害行為に抑圧されているひとが誤診され、ビョーキのひとのレッテルを貼られることだってある! そもそも、ビョーキって概念自体、病院があるから、そして病院で「労働力」をもたない人をビョーキってことにしてほしい資本主義の企てがあるから、存在してるものじゃないのかしら?
 もう少し掘り下げるべきかもしれないが、とりあえずこの辺にしておく。
 
3/医療が救える人はごくわずかであること
 松本俊彦の議論を想起されたい。医学という権威の暴力性そのものへの批判こそしないにしても、彼は現状の医学的なアプローチの妥当性に(少なくとも部分的に)懐疑的である。実際、精神医療に対して積極的に参加することのできない若者の多いことを、救急医療の事情に照らして指摘している。
救急医療従事者の多くが、自傷者に対して怒りや嫌悪感といった否定的な感情を抱いており、これに加えて、自傷を繰り返す若者のほうも、医療者に対してかなり挑戦的な態度——たとえば、「うるせえ」「放っておいてくれ」「関係ねえだろ」などといった暴言をとることが多く、医療者の側がメンタルヘルス支援へ紹介する気が失せてしまう場合が少なくないことが判明したのです。*10
 また、自傷者が境界性パーソナリティ障害と診断される若者であることが多い事情などを踏まえ、陽性転移が怒る可能性が懸念される。それに際して自傷者と「距離を取る」ことについて、松本は次のように指摘する。
この「距離をとれ」という助言の真の内容は、「相手の援助に没入するあまり、自分や相手の置かれた状況を、客観的かつ冷静に見ることができなくなっているから、それができるように援助体制を整えるべきだ」ということだと思います。そのためには、物理的・心理的に距離をとることが重要なのではなく、援助すべき相手に対して複数の援助者であたること、もしくは援助チームを作ることが必要なのです。*11
 すなわち、医療機関のみに頼ることは不十分である。そればかりか、かえって医療機関の中で陽性転移を生み出し、二次加害が発生する温床となりかねない。松本のこの主張からさらに敷衍するなら、少なくとも医療機関に必要以上の期待をすることを学生自治組織が率先して行う必要はないということだ。つまり、物理的な自傷行為への医療措置ならまだしも、それ以前の段階にあってはむしろ組織内での相互ケアによって解消していくほうを目指していくべきである。端的にうつ病などの精神疾患である以前に発達障害などの特性を併発している場合は、なおさらである。
 自分自身がいかなる環境に投企しているのであり、そこでいかなる存在のあり方を獲得しているかという実存論的なメタ認知が獲得されない限り、真にメンタルヘルスにおける「うまくやっていくこと」を勝ち取ることなど不可能である。この点はジャック・ラカンをはじめとする根源的にフロイトを読んできた系譜の臨床家たちも共有するところである。
 さらに松本によると、学生の10%近くが自傷経験があるという統計も明らかになっている。これを信じるならば、医療機関にアクセスして精神療法を受ける学生よりももっと多くの学生が身体的自傷によって精神的苦痛を和らげているということを推測することができよう。したがって、病院の「存続」では、かろうじて一部の学生との接点を医療従事者が勝ち取ることはあっても、社会全体を充満する根本的な問題は何一つ解決していないのだ。
 こうしたごく基本的なことは、「良心的な」精神医療従事者の中ではほとんど常識として共有されていることである。批判者は「ではなぜそれを仕事としているのか」と問いそれでもって論駁するだろうが、自らの仕事の限界を自覚しているだけマシである、とだけ答えておこう。良心的な、と言ったのはあくまでもこの人たちが自分たちが権威としての医学に阿って仕事をしているという自覚性においてのみであり、この人たちが治療に積極的であるか消極的であるかには関与しない。あくまで現在の体制の中でできうることをするための茶番として、投薬療法や認知行動療法をやっているまでだ。良心的である上に進歩的な精神医療従事は、もし世界的にオーティズム・ライツ運動が浸透する機運が高まり、医学以外の方法で「発達障害」(医学以外である限り、その語彙はもはや名辞矛盾だ)への社会的な介入が可能になれば、喜んで自らの仕事を投げ出し、統計学の学位でも取り直して新しくできた仕事をやり始めるだろう。
 したがって、医療体制が復旧すればよしとする考えは、あまりに近視眼的である。あたかもそうした主題化をしている求める会の議論は、少なくとも学生自治の文脈においては、不十分に過ぎると言わざるを得ない。精神科医療から漏れる少数者の中の少数者への抑圧をさらに加速させることに、学生自治の文脈で奏功することでもあるのだろうか。
 
4/「精神疾患」「発達障害」という概念/属性そのもののラベリングが可能であるという条件そのものが特権性を帯びていること
 この点は手短に済ませよう。女性ジェンダーや日雇い労働者の中にも、発達障害と認められる人は相応にいる。しかし、それらは無視されるか、診察の中ではスルーされるものである。他方で京都大学の少なくない学生たちは、そうした障害や疾患を認められることが可能となっている。それはなぜか。単に京都大学に障害者が多いからというわけではない。そうではなく、大学に障害をめぐる知見の権力が集中し、大学が知見を収奪しているからに他ならない。であるがゆえに、私は吉田本町の大学に通っているというただそれだけの理由で障害者になるかならないかのグレーゾーンに立っていられる。もし大学以外の他のところにいたら、診断などされただろうか?
 その限りにおいて、大学は特権性を帯びた場所である。健康科学センターの配置によって、その特権性は一つの物質的根拠を持ち、魂を持つようになり、したがって新しいイデオロギー(上部構造)を形成するようになる。この点を好意的に評価することは、自明ではないはずだ。
 
以上の4点をもとに、私は「求める会」に次のことを要求する。
1/成員で暗黙裡に共有されている「治療文化」の内面化を自己批判し、その内容を今後の版で反映すること。
2/要求内容に限らず、学生自治組織としてできうる相互ケアのプランを提示すること。自力で提示することが不可能ならば、権威(研究者)の協力を得ること。また提示に際しては、権威の協力を得た場合、誠実に権威を利用したことを明示すること。
 
 私は足を引っ張るつもりはない。ただ、精神医療という監獄から私そのものを解放したいだけだ。なぜ健常者どもが頭も悪いグズのくせに人間関係をやって支配者の顔をして我が物顔で大学を闊歩している一方で、私のようなまともで堅実で聡明な人間が排除され金を払ってまでキチガイとして扱われて、薬をもらわなければならないのか? まるで意味がわからない! この社会的構造そのものを糾弾しない限り、私は腹の虫がおさまらない。なぜ生理用品や低用量ピルに金を支払わなければならないのか? レイプされない環境を作ることの方が本質的だというのに? なぜ少数民族家系図を引っ張ってきて祭祀継承者であることを主張しなければならないのか? 和人がでっち上げた「祭祀継承者」それ自体に問題があったというのに? 何も変わりがないではないか! ああ、あらゆることごとくのナンセンス、ここに極まれり!
 制度があるからといって根本的な構造は克服できないし、問題を個人化するばかりだし、加害者は加害行為をやめないので、ちゃんと当事者の間で障害を解消していこうとする運動を形成していくことの方が大事だ。そもそも、特定の傾向を持つ人が発達障害などのレッテルを貼られて医療機関にアクセスしなければならない、金を払って薬をもらわなければならない、そうしなければ学校生活に参加できない、という事情自体がおかしい(そうしなくとも平気で学校に通い、くだらない青春を謳歌している連中がごまんといるというのに!)。求める会をはじめとする改良主義者たちは、この点を看過している点で不十分である。この点は、構造的には「女性」(あるいは子宮の部位を持つ個人)だけが不必要に生理用品を金を払って購入する必要があり、あるいはレイプされた時に強制避妊やピルの処方を受けざるを得ないなどのコストを支払わなければならないこととアナロジーが成り立つ。「レイプされない方法」ではなく、レイプが起こらない環境ができるよう啓発をしなければならない。タテカン訴訟はタテカンの将来的な立て方とセットで考えなければならない、等々。
 存続を求めるな、無償化を求めよ! 万人に薬物のアクセス権を解放せよ! 病院の特権を解体せよ!
 

鷺(京大学生・ASD/ADHD当事者)

*1:どうやら歴代最長内閣の総理大臣だったらしいが、ここでは問題ではない。

*2:どうやら学生担当理事を歴任していたらしいが、やはりここでの問題ではない。

*3:残念ながら、それらを荒唐無稽だと断ずる人々が跋扈している状況には、甚だ嘆かわしいという他にあるまい。世の中簡単には変わらないものだ。

*4:ヘーゲル、『法の哲学II』、藤野・赤沢訳、中央公論、2001年、189-190頁。

*5:ibid.

*6:ヘーゲル、同書、205-206頁

*7:私自身入手していないし、今後読むこともないかもしれない。

*8:フーコー・コレクション』第6巻、筑摩書房、2006年、21頁。

*9:同書、33頁。

*10:松本俊彦、『自傷行為の理解と援助』、日本評論社、2014年。

*11:同書。

前略 20210929

※致命的な誤字脱字があったので、訂正。

doi.org

 何か見たついでにこの記事を読む。「なぜ、人間だけが家族と共同体という、相反する論理を持った社会を作れたのか。そこには文化ではなく、人類が類人猿との共通祖先から分かれ、独自な進化の道を歩んできた生物学上の理由が潜んでいる。」という設定の下での行論のようだ。とりあえず順を追ってみていく。
 まず、出産に長いスパンを要する類人猿の生活史戦略に多産を掛け合わせることで、「家族と共同体からなる人間独自の社会組織を作り〔……〕70億を超える人口を抱えるまでに発展する素地を築いた」とあるが、ここは注意しておきたい。この戦略だけではよくて1億程度しか増加しないはずなので、他の要素が必要のはず。なるほど、著者は単純食性では種としての生存ができなかったことを挙げ、多産によってこれを克服し、霊長類の繰り出すことのなかった草原地帯に進出したと述べる。だが、年毎の世界人口増加量を見ても「70億を超える人口を抱えるまでに発展する」には早くとも19世紀を俟たなければならない。結論を急げば、資本制の下で進行した産業社会の中で決定的な人口増加が起こったわけであり、これが決定打となる。すなわち、生活史戦略と多産のシナジーは、現代の人間社会に至るための必要条件ではあっても十分条件ではない。あくまでも些事に思われるかもしれないが、この記事ではそれなりに重要な論点となる。

ourworldindata.org

 続く箇所では人間の祖先が草原に出た場面が描かれるが、省略。
 続いて、霊長類が共有してきたインセスト回避(育て親と性交渉しない)を巡って解説が進む。一般の霊長類の場合は、制度に頼るまでもなく行動の段階でインセストを回避することに成功している。霊長類の場合は実際の家系にかかわらず、非母系社会単位で一つの共同体が形成されるが、母系家族で子育てを通してインセストが回避される一方、父系家族ではインセストが回避されない。これを回避するために、メス個体が非母系社会の間を移動することになっている。だが、家族と共同体が混在するホモ・サピエンスの場合は、インセストを回避するための行動をしない。これを避ける制度が必要になってくる。すなわち、インセスト回避が「制度として必要だったのは、複数の家族が集まって共同体を作り、子育てを家族間の共同作業としたから」だと著者の推察するところである。
 以上の叙述を踏まえ、著者はインセスト回避という条件下で性別役割が個体毎に代替可能であり、その条件ゆえに人間家族が後天的に形成され多様になることを確認する。
 是に於て、注目すべき箇所がある。長めに引いておこう。

人間の家族と共同体は、類人猿から引き継いだゆっくりした子供の成長と、危険な環境に暮らして獲得した多産を成り立たせるための社会組織である。そこでは外婚制を維持するためにインセストを制度化して、女性の移動を促進する仕組みを作り出す必要があった。しかし、もともと生後の子育てを介した経験によって後天的に作られるこの性向は、育ての親を重視した代替可能な家族を人間にもたらした。

 記事中で確認されたように、霊長類の生活史戦略と多産のシナジーを成功させるための社会組織として、人間は自らの家族/共同体を構成する。この家族/共同体はそれ自体が混在するためにインセストを制度化する他になく、それによって意図的に女性を移動させてきた。これが逆説的であるのは、生みの親ではなく育ての親の関係によって家族が規定されるためである。一般の霊長類の場合は、育ての親の場所は共同体にあった。しかし、家族/共同体の混在する人間においては、まずもって家族の成立段階から親が後天的に生起される。子供の生まれる前から親が最初からあるのではなく、子供が生まれた後になってはじめて親子関係が生成されるのだ。著者はあえて主張していないが、この反転こそが人間社会において本質的である。しかし、この時点で著者が看過していることだが、我々は次のように言わなければならないだろう。その家族はもはや自然のものではなく、共同体の中で規定されている制度の上で生成された、人工的・文化的なものではなかろうか。我々の家族成立過程においては、いかなる本質主義も、いかなる自然主義も機能しうるだろうか。
 それにもかかわらず、ジェンダーフリー社会について著者は「家族と共同体が人間に独特な繁殖と成長の特徴によって生み出されたという進化の歴史を忘れなければ、子供の成長に支障は起こらない。まさに、人間の自然と文化をつなぐ社会を構想するところに、現代のジェンダーを考える意義はあると思う」と認定し、記事を閉じている(強調引用者)。この記事で「自然」という語彙が現れたのは、この箇所を除けば冒頭の「ジェンダーという自然と文化をつなぐ概念」という箇所の一つだけであることに注意されたい。これらの「自然」という語彙の使用は、上野千鶴子の『家父長制と資本制』(岩波書店)を通してジェンダー論をほんの僅かにかじった程度の私でさえ違和感を禁じ得なかった。明らかにジェンダーと呼ばれる概念は「社会的・文化的な性差」であり、自然とは独立したものである。つまり、「自然と文化をつなぐ概念」としてのジェンダーなるものはほぼ名辞矛盾に等しい。インターネットの字引きさえ引けばすぐに誤謬だとわかるような部分を、わざと残しているあたりに、著者の策謀を邪推せざるを得ない。
 先ほどわれわれが検討した箇所を踏まえるなら、家族はすでに社会の基礎単位でありながら、共同体の中で規定された制度の上で形成された人工物であり、とりわけ育て親は代替可能なものとして反転されている。著者は「血縁関係のない親でも、片親でも、同性婚の親でも、家族と共同体という共同子育ての仕組みがあれば」子供が健康に育つと補足はしているが、著者自身が根拠としているのはあくまでも女性の移動である。先ほど引用した箇所を再び引いておく。「外婚制を維持するためにインセストを制度化して、女性の移動を促進する仕組みを作り出す必要があった」(強調引用者)。すなわち著者がいくらP/Cに配慮したエクスキューズをカマしていようが、著者の論拠として導かれるのは女性を贈与の媒介物とみなすホモソーシャルでしかない。
 また、冒頭でも確認した通り、近代の人口爆発は自然に成立したものではない。人口爆発は明らかに、家父長制とそれと共謀関係を結んでいる資本制の要請から、一夫一婦制が敷かれ、そのもとでの労働力再生産が行われたことによる。ここでもまた家父長制という形態によって現れるホモソーシャルが前提となっている。否応無くホモソーシャル的社会を作らざるを得ない人類の生態学・人口学の知見をもって「現代のジェンダーを考える意義」として「人間の自然と文化をつなぐ社会」という構想をブチあげることは、そもそも文化に接続するための「自然」が何のことか明らかでないことも含め、全くもって意味が通らない。
 ここまでずっと著者名を明かさなかった(リンクを踏めばすぐにわかる)が、同記事の著者は「進歩的な」人物として某大学前総長に就任された人物である。この人物は退官したのちも同大学に出講しにくるという。何かといえば「ジェンダー論」だそうだ。霊長類における性の多様性を講義するということだが、ジェンダー論講義を行う講師としてこの人物を選ぶのは、果たして適切な人選と言えるのか。またここでは触れないが、同記事の著者が早朝をしていた当時、同大学は戦前の植民地主義的研究をめぐって訴訟を受けている。これについて、当時総長としてのいかなる弁解もなかったことは、明らかに「進歩的」というキャラクターからは程遠いと認めないわけにはいくまい。
「多様性は自然から見ても本質的だ」という主張は通俗科学などで散々目にするが、これらは性(ジェンダー)とその抑圧構造が社会的に構成されたものであるという前提が欠落しているという一点において、特別な有益性を持つものとは言い得ないだろう。むしろわれわれは次のことに焦点を当てているはずだった。類的存在が抑圧、価値転倒(搾取)において形成され、あるいはアイデンティティとして登記され、あるいは完全に忘却される、等々、その概念形成の過程を歴史的(かつ、物質的基盤をたより)にした分析に基づいて明らかにしていくこと。超歴史的な多様性なるものは存在しないということをあえて提示することは、本稿を閉じるに当たって一定の価値をもたらすだろうと思う。

通り過ぎてきたもの #1 廃墟のあとに——総長選考・自由化・エクセレンス

「そろそろ総長選考の話をしよう」と言って、結果として一回書いただけで放置したエントリがある。日付には2020年7月と書いてある。勢いで書いた文章だ。いずれ牛乳の賞味期限と全く同じ程度に、数週間で枯れゆくものだとわかっていたものだ。プレーン味のグラノーラにレーズンを流し込んで使ってしまいたくもなる。だが私にはそんな都合の良いグラノーラはなかった。台所を探したって全部去年で賞味期限が切れていやがる。すなわち、使い余して腐らせたものだ。なかんずく都市において腐ったものは、アスファルトの上でハエを集らせるばかりであるかぎりの害悪なものでさえあるが、土壌に返すことがあるのなら、多少の肥沃にもなるだろう。幸い私は土塊だ。ノイズだらけの土塊だ。土塊にまみれ、土塊の菌類たちにどろんこ遊びをさせるうちに、何年かすれば多少の数ミリグラムくらいは価値のあるものが出てくるだろう——多くはくずにさえなってくれることのないものだが。
 レジュメとはフランス語で「切った」ものそのもの、すなわち「切る」という過程の残余に相当するものであるが、私たちは「切る」過程、すなわちテクストに書かれていることがらを分解し、消費し、エネルギーに換える過程をすぐに適切なことばで言い表すことができるのだろうか。レジュメは端的に切られたものでしかない。にもかかわらずレジュメはそれ自体新しく「切る」ことを想定する。したがって、「言説の事実の他に事実はない」というラカンの言を俟つまでもなく、私たちは次のように言わなければならないのではなかろうか。「切る」レジュメの他にレジュメはない、と。

  2020年の総長選考の話題は私のtwitterアカウントのタイムラインを盛り上げたが、私はというと(コジェーヴを想定した)権威の一般論を話す限りに留め、黙り込んだ——少なくとも、各種啓発や候補者の選り好みについて表明することはついぞなかった。それは、総長選考の論議が確実に現実化するのは本選考が終わって以降だという確信があったためだ。そもそも大学の総長とはある意味連邦国家首相のようなもので、法も習慣も異なる学部の寄せ集めをなんとか束ね、外部との均衡を保ちながら(独法としての)「利害」を獲得するためのあらゆる機微が求められる。あえて偽悪的なことを言うなら、総長選考会議の規定のもと「正統に」当時のプロボスト——ある種の事務次官的な立ち回りを求められる立場だ——が選ばれたのはこの場合において完全に正しく、彼が選ばれたこと自体は全く問題にならない、とさしあたり言ってしまえるかに見える。あくまで傍証であるが、文芸理論研究者ビル・レディングズの遺作『廃墟のなかの大学』においても、現代の大学においてもっとも重要な役職として、プロボストが掲げられている。レディングズの叙述はラディカルでありながらもかなり悲観的だ。あえて私たちもレディングズにしたがっていうなら、プロボストが総長にそのまま流れ着くのはある意味で必定でさえある。たとえ大学の総長に対する必要を満たすだけの、ガバナンススキルや政治的力関係において彼が優位であることが承認され、その反映として総長選考規程に基づき正当に選ばれたにすぎない。もちろん実際のところは部局内や部局間で得票を狙ったロビイングがあったと思うのが素直である。とはいっても、総長ないし学長と呼ばれる立場の人間に課された職務を見る限りにおいて、プロボストがそのまま総長に選ばれたとしても、なんら不思議なことではあるまい。すなわち、「国立大学法人京都大学の組織に関する規程」(2004年制定)および「学校教育法」に言う——

国立大学法人京都大学の組織に関する規程
第2条 国立大学法人京都大学(以下「法人」という。)に、役員として、その学長である総長を置く。
2 総長は、学校教育法(昭和22年法律第26号)第92条第3項に規定する職務を行うとともに、法人を代表し、その業務を総理する。

学校教育法
第九十二条 大学には学長……を置かなければならない。……
③ 学長は、校務をつかさどり、所属職員を統督する。

したがって、大学の学務や事務を司るあらゆる「所属職員を統督」し、かつ「法人を代表し、その業務を総理する」限りにおいて、誰が総長になっても咎める理由を私たちは持ち得ない。レディングズの論を俟つまでもなく、大学はもはや空虚である。大学の対象とされてきたフンボルト的「文化」も市民国家の形成を基礎付ける「教養」(ヘーゲル)のすべてがナショナリズムの加担にしか役立たないことが明らかになった近代以降の大学にあっては、もはや大学が持つべきとされるいかなる特異的な対象もない。すなわち私たちに向かって現前するような対象は不可能であり、ただ私たちにとって大学という一つの社会体を構築するいかなる物語(ナラティブ)も働かなくなっている。私たちはただ漠然と、空虚なコンシューマリズムを内面化した形で、パッケージ化された「文化」とやらを享受し、チャラい人間関係と、ちょっとばかりの放埓さと、空疎な社会意識を投げ散らかすことをもって空白の青春を埋め合わせることで満足する他にないのだろう。そうして最後は長蛇の列をなして記念写真を撮りたまえ! こんな戯けた道楽、私たちの市民社会の成員であることを乗り越えた一人の社会的人格において内在すべきはずの社会的知性を等閑にするばかりの空疎! 我々はもはや新たなパロディックな〈父〉を前にいかなる抗議をも諦め、彼の声に享楽するに徹する他にないのだろうか?
 したがって、総長選考規程に先立つあらゆる諸前提が問題なのである。ところで、屡々学生に直接的な参政権が与えられていないという点で「正当な」選考が行われていないことを問題視する意見を見かける。しかし全く正当に行われているがゆえの不都合を指摘する意見は(私の捕捉しているごく少数を除いて)、ほとんどない。あえて偽悪的に言うなら、大学が不徹底であったことは一度たりともない、むしろその徹底が本来的な用途に消費されていないことが問題なのだ。大学の「自由化」の徹底がその理事にもたらしたのは、碩学大儒を匿う太っ腹さではなく、五年という極めて視野狭窄なスパンからなる、「見える化」された清潔感のあるクリーンな「中期目標」を作成する才能しかない。したがって、可視化を、クリーンな選考を!と言うことが総長選考を我々の望み通りに変えることは、一切期待できない。なるほど可視化された行政が求められた。だが可視化や自由化の要求は、よく知られるように今般のネオリベを許している。もちろん可視化や自由化の運動はそれ自体評価されるべきだ。しかしそれが、野放図の階級的な見境もない無制限なものになった途端、悲劇に転ずる。いみじくもスティグリッツが指摘しているのは、経済的な階層間の格差と情報における格差との間に強い相関があることだった。1970年代の利潤率の恢復を目的としてなされた数多くの自由化は、アッパーミドルにとってはほとんど自明であるものでしかなかったが、そうでない層には害悪極まりない階級復帰としてしか映りようがなかった。そればかりか、中間層に滑り込むことのできない層の要求でさえ、利潤率の向上のための蓄積に利用されているのだ。もちろん新自由主義の消息は地政学的な諸相をもって歴史的に明らかにしなければならない*1ところであるが、少なくともはっきりしていることは、可視化や自由化の要求があまりに抽象的であればあるほど、管理者にとってはより資本都合な施策を行うことが可能になるということだ。要求が裏目に出ないとどうして断定できようか? 我々が素朴に抱く「正当な」選考は、むしろ現行の体制の実現するところである、現体制の選考は我々が本来大学側に要求した通りのものだ、と言わなければならないかに見える。だが、これではないと思う。もう少し掘り下げよう。
 聞こえの良い旗印(「規制緩和」、「脱官僚」、等々)とともに自由化、市場化が勧められ、可視化、一本化等々を行っていった結果、皮肉にもかえって(ヴェーバーによる)全ての部分が予測可能、代替可能な全体としての官僚制*2が加速していくことは、とりわけ日本の行政においてもなお顕著だった。それと同様、現代の大学の行政はもはや、官僚制以外のいかなる行政も想像できない残酷な事実性に立たされている。それは同じ大学に所属する学生においても同じことだ。我々は真に自由なるものを観想することを希望するが、実際には口頭から発せられるものすべてが官僚制の言葉として回収されるのが現状である。そもそも我々自身が官僚制にあまりに慣れっこなために、あえて「合理的に」そうすることを選んでしまう。その根拠を特定するにあたって有効なのは、資本投下の対象がどこにあるかを考えることである。(私の在籍しているところが京都大学なので、京都大学の事例に限るが)一大学の事例で運営費交付金を充てるために施行されている「アクションプラン」の内訳を見ることは特に重要だ。「事業報告書」(2019年度)の著すところによると、「第3期中期目標・中期計画を見据えた改革の加速期間とされる現在、大学が直面している状況を正しく認識した上で、その改革に向けた指針「WINDOW構想」を着実に実現していく」ことを目的に京都大学重点戦略アクションプラン(2016-2021)が策定されている(p.3)が、事業の多くには、(特殊のものであるかに関わらず)制度=機構を成立させるあるいは維持させることを目的として設立されているものが少なからずある。法人としての必定といえばそれで落ちる話ではあるが、それが教育の場としての成功に役立つかどうかは別問題だ。『シャドウ・ワーク』などの著作で知られるイヴァン・イリイチは、教育の場を制度によって基礎付けることに起因する資本投下について、「学校」という制度が破壊的であることを踏まえて次のように批判している。

〔学校は〕世界の最も急速に成長する労働市場でもある。消費者を操作することは、経済学の中でも発展しつつある主要な部門になっている。裕福な国々においては、生産コストが減少するにつれて、人々の消費行動を特定の方向に導くという巨大な事業にますます多くの資本と労働が集中されるようになってきたのである。過去数十ヵ年の間、学校制度に直接に関連した資本投資は、国防費の伸び率さえをも凌ぐ速さで急速に増えた。……学校のもつ破壊性が認識されないで、その破壊性を緩和するためのコストが上昇していくかぎり、学校は合法的に浪費をするための機会を無限に生み出していくのである。*3

この「人々の消費行動を特定の方向に導く」という点はレディングズの情況分析とともに捉えることができるだろう。レディングズもまた、「エクセレンス」の審級が大学ガバナンスの領域で闊歩する一方で、大学に所属する学生の間では一定のコンシューマリズム(消費主義)が蔓延っていることを指摘している。
 すなわち、イリイチの濃縮された議論を大学に限定して展開するなら、次のように整理できるだろう。1/a.いわゆる先進資本主義国家(残念ながら日本もそのリストに含まれるべきだろう)においては、生産過程よりもむしろ消費過程が注目され、国民の多くが消費過程(いわゆる第三次産業)に投下されるようになる。それゆえに1/b.「頭脳労働」とされるものが大学教育の要件になる。これに相まって、2/a.周辺化されている労働力が顕在化し、2/b.大学の対象としての「文化」と呼ばれるものに固有のナショナリズム的な性質が暴露され、その価値が宙吊りになる。したがって3/確信犯的に消費を促すためのコンテンツ化とそれを成立させるための資本投下が大学の中で成立する。コンテンツ化といったのは、次のようなことを指している。すなわち、無条件に誰もがそれを良いと思える価値判断が可能になるカテゴリで構成されていることである。つまり哲学や文献学などのたかだか理性の立法に訴える他にない学問領域(カント)でさえ「有用性」の契機によって評価されることがコンテンツ化の実相に他ならない。この点はレディングズが激しく糾弾するところの、ユネスコの報告書に掲揚された「エクセレンス」のカテゴリと、質的に全く同一である。
 すこし掘り下げよう。このエクセレンスの蔓延ないしコンテンツ化は、文科省の指導によって存立している国立大学法人においても例外ではない。そればかりか、文科省の指導は国立大学法人を一つの「経営体」として運用することを画策している。従来の枠組みにあっては、国が大学に「中期目標」をトップダウンに提示する上意下達の方式が採用されていた。文科省は、「令和4年度〔ママ〕から始まる第4期中期目標期間を、国立大学法人の機能を拡張し、真の経営体へと転換を図る移行期間と位置付け、必要な環境整備を段階的に行っていくこと」*4として戦略目標を定める。文科省は以上の枠組みを図案化している*5

 図だけを見ると国から大学に目標を丸投げして大学に仕事をさせる「上意下達」のヒエラルキーから、国と大学がイーヴンの関係になり大学が自ずと仕事をする「自律的」なシステムへと変貌を遂げているかに見える。しかし、ここで深刻なのは、国と大学との権力関係が依然として保存されていることである。一つは画一的な指標(データベース)を基にした中期目標素案の作成である。一見すると「大学の自治」を守っているかに見えるこの過程は、大学個別の状況を踏まえた労働の価値への転換が発生している。すなわち、大学の勝手で規定するにすぎない経営方針が、中期目標の媒介となり、国家の規範や行政に基づいた精査の(間接的な)対象になる。また、「中期目標を提示」する側が依然として文科省側にあるかぎり、文科省側の判断によって容易に従来の上意下達型と同様の実態にすることは極めて容易である。そればかりか、余計に権力関係を強化するものになるだろう。それというのは、大学側に中期目標素案を作成させるにもかかわらず中期目標を提示する決定権が依然として文科省側にあるかぎり、大学から持ち込まれた中期目標素案を金の卵にもちり紙にもできるのは、ひとり文科省だけだからだ。この枠組みから大学が、大学個別の生産を無視した端的に国家的な企ての下部組織として迎え入れられるまでは、ほんの数手である。それは老カントが夢想した真理と有用性という二つの契機の争いなどない、まったくもって「クリーンな」上に「清潔な」大学ガバナンスの出来である。有用性という目的の国が到来する。なんと素晴らしく空疎な和平だろうか! 端的に大学が法人化された結果焼け野原と化したあと、やってくるのは国家に依存する経営だった。廃墟には空疎な「エクセレンス」の外皮に覆われた、パロディックで、哄笑に値する、「理念」のダンプがやってくる。
 この限りにおいて大学の「文化」それ自体は、大概執行部の方から迎え入れられるものでしかなくなっている。決定された文化、商品としての形態を維持し、交換過程に取り入れられる文化だけが迎え入れられる。これは一面的な資本制批判で済ませられるものではない。この反例としては、大学内の自由とされるものによって行われる活動のどれほどのものが公正であるかを考えるだけで十分である。すなわち、大学内で生起している市民社会的な——あるいは諸個人の意向によって自律的に成立すべき規範からは疎外された形態に基づく——活動が、大学内でどれだけ機能しており、そして看過されているだろうか。あらゆる周辺化されたものを対象化する営為それ自体を批判することをしない、少なからぬ社会科学的な言説がこれに該当するのではなかろうか。科学に内在する疎外形態を批判的に検討する土壌は、「有用性」の観点からは抜け落ちてしまう。
 いみじくもバシュラールによって明らかにされたことは、端的に知とされるもの、それは科学的な知の言説においては一つの疎外形態によって表現されているということだった。すなわち、科学は諸個人の直観的な認識を認めるものではない。そうではなく、むしろ数学的に単純化された、カテゴリとして適切な(有用な!)ものを通した認識をのみ認める。それなしで科学の成立しえないような諸範疇はそれ自体が暴力的な活動であるに他ならない。それゆえに科学が向けられる眼差しは真理の契機においてのみあるのであり、それはカントにとってみれば哲学部の仕事に他ならない。したがって、大学の自由を端的に認めることはできないだろう。そうではなく、大学が自律的な立法に基づき、科学に内在する諸矛盾を止揚し、真理の契機を開く余地が必要なのである。それはすなわち、端的に「同意」を先送りし続けることであり、「自明ではない」ことを絶えず確認する実践を行い続けることに他ならない。レディングズが提唱した「不同意の共同体 community of dissensus」は、是に於て「コレクティフ」(ジャン・ウリ)ときわめて接近する。

 私たちは「本来の」自由ということによって、それとは全く別の絶対的な自由への想像力を捨象してしまってはいないだろうか。われわれは制度の構造論にあまりに麻痺し過ぎて、われわれ自身が求めるべきものを、完全に見失っているのではないだろうか。リヴィジョニズムに降れと要求するのではない。逆である。つまり、制度まみれの日常が作る覆いを取り払い、われわれのいかなる「論議」を解体し、欲望や直観に光を当ててそれらの最もラディカルなモードを暴き出し、もって自由の想像力の布置を発見しなければならない。ところで、われわれは偶有的な被造物である限りにおいてそれ自身に愚劣を持ちうるものであり、われわれの分析はその愚劣を発見するだろう。是に於て自由は可能的愚劣への隷従であるという警句を与えることは、いかなる大衆迎合主義への容認する余地を認めることなしに、真の自由への道を開く。
 いみじくもハーヴェイは新自由主義成立に関する経済地理学的な分析において(『新自由主義』)、権利の概念こそ私たちの再検討すべきものであるという提言を残して自らのテクストを終わらせている。グレーバーもまた、中央集権的、上意下達的な制度(いうまでもなく、それは官僚制の持ち物だ)に依存しない自由な言論空間の場を想起する。これらの著述家たちの提言を踏まえて、私たちもまた、自由を検討すべき段階に至っているのかもしれない。すなわち、極論からすれば、主権なき自由をも含めて私たちは自由を考える必要があるのだ。主権を他者の大地に譲ることもまた私たちの自由のリストに含まれている。有用性の有無にかかわらず、同意に対する一つの諦観を保ち、その中で評価に関する多くの「根拠づけること」それ自体を模索する運動をやめないことに、一つの賭け金を置く余地が残る。この不同意に向き合うことについては、次の拙稿につなげようと思う。

*1:この点において優れている著作として、デヴィッド・ハーヴェイ、『新自由主義:その歴史的展開と現在』、渡辺治監訳、森田・木下・大屋・中村共訳、作品社、2007年、を参照。

*2:私には「官僚制」について若干の加筆をする義務が課せられているものと思われる。さしあたり「官僚制」とは「再現可能性」と「計算可能性」によって規定される執務で構成されており、それ自体で閉じているあらゆる機構の形態を指すものとする。(たとえば行政学や法学の試験をパスすれば)誰でもできることが保証されている、かつプロジェクトの進行や成果が計測可能であるような仕事をする、一つの閉鎖系としての官僚制。すなわち官僚制においてはそれ自体自律的な機構 institution である。そしてそこでなされる仕事のすべてにおいて、プロジェクトとして着実な目標と利益が成立し、それらが確実に獲得できることが保証されていることが要請されている。とりわけ後者の保証を守るために、官僚制的な機構は多大なる責任を負わされる傾向が非常に強い。

*3:イヴァン・イリイチ、『脱学校化の社会』、東・小澤共訳、東京創元社、1977年、92頁。

*4:文部科学省、「国立大学法人の戦略的な経営実現に向けて~社会変革を駆動する真の経営体へ~最終とりまとめ【本文】」、2020年12月25日、3頁

*5:文部科学省、「国立大学法人の戦略的な経営実現に向けて~社会変革を駆動する真の経営体へ~最終とりまとめ【概要】」、2020年12月25日、2頁、を参照。

通り過ぎてきたもの #0

 この街にはいけず石がいたるところにある、と彼が言う。桜の樹の下には死体が埋まってゐる、とでも聞いたかのような呆然とした顔をわたしはしていたのだろう。

 いけず石と呼ばれる石がある。京都の言葉で「意地悪な」くらいの意味をもつ形容詞を冠したこの石は、京都の路地の随所に点在する。それらは撤去されることもなく、路地で自らの存在をかたくなに訴えるわけでもなく、ただ交差点の角や家の脇に置かれている。一説によると車が住居の壁を擦ることを避けるために意図的に設置されているものであるとも言われるが、これを「いけず」と呼ぶのは、自動車を運転する人にあっては、なるほど言い得て妙なのかもしれない。

 新年度が始まるたびに大学には多くの新入生が集まる。新入生は明るく華やかなキャンパスライフを謳歌できる様々なアイコン(サークル、クラス、ゼミ、等々)への参加に駆り立てられる。在学生たちは、自分たちの所属する集団へと新入生を迎え入れ、組織を充実させることについてあれやこれやと画策する。利害が一致する。単に開講のためのガイダンスさえすれば良いものを、教員は学生生活のためのtipsを丁寧に話し始める。少し皮肉っぽい描写だが、これが大学の春で成立しているだいたい風景と見てよい。しかし、と思う。それらの生活はまことのものなのだろうか? ちょうどランボーが一人の未亡人に語らせる惨憺たる生活ほどではないにせよ、私たちは浮き世に行きている感を否定しきれない。

 もちろん浮世を浮世として「ノリつつシラけ、シラけつつノ」るシニカルさをもって、私的生活と知の戯れにおいて自らの生を完結させることもできる。下世話な話だが、それで得することも多い。だが、そこで私たちは何かを通り過ぎている感じがする。通り過ぎて行きながら、最終的に私たちは卒業式を迎え、振袖や袴で着飾って正門前に長蛇の列をなして並んで記念写真を取ることのために大学に通い続ける他にないのだろうか?
 他方、まことの生活にはルックス、コミュ力、スキル、等々が必要だ、と私たちの欠如を煽る立場がある。そしてそれらが充実すればあるいはまことの生活を獲得できるだろう、と文明の利器が手渡される(そのほとんどがApple製品であることは言うまでもない)。こうしたものの「できなさ」(欠如)を満足すれば利益が得られるという「神話」はあまりに多く広まり過ぎている。そんな日はこない、と断定的に言うことはできないが、利益とされるものの多くは、だいたい後の祭りになってからわかってくるものでしかない。合目的化された「教練」への過剰適応は、果たしてほんとうに合理的なのだろうか。またも私たちは通り過ぎていく。何を?

 他者に目を向けることはある種の好奇心や冷やかしであることが多い。だがその立場で見ているのは他なるものであり、他者それ自体ではない。社会の中で跋扈する数多くの「トレンド」として消費される「他者」は依然として、それを他者として承認できる人々の側にある。美徳について語るとき、ラ・ロシュフコーは「自己愛」を引き合いに出す。換言するなら、美徳を自己愛によって基礎づける。ラ・ロシュフコーからさらに一歩進めば、「他者」を「他者」として語ること、それは一つの特権的な身振りなのではなかろうか。
 他方、属性とそれが帰属するとされる物体との微妙な断絶を自然主義は容易に通り越す。少なからぬ科学が今もなお自然主義的ないし素朴実在論的なアプローチで講義される。科学の論理それ自体に内在しているはずだった(存在と属性との峻別を含めた)数々の批判的な運動が、その研究者や使用者によって等閑にされることは、否定することがむつかしい。自然主義を自己愛の持ち物だと喝破することはあまりにも粗暴な論理であるが、自然主義、自己愛という二つの立場は「他なるもの」への向き合い方において共通の礎があるかに見える。

 この街にはいけず石がいたるところにある。彼がその話をするまで、いけず石と呼ばれるものの存在も、それが大学のあるこの街に数多くあることも、私の知るところではなかったし、また想像しうるものでもなかった。私たちの社会では、少なからず私たちの通り過ぎてしまっているものがあるらしい。あるいは翻って、私たちは単にいけず石なのかもしれない。自分たちがいけず石であることをついに自覚することがないようにするために、いけず石を他者化し、そして石はそれ自体石として、石に帰属する本質を当てこすりして、通り過ぎていくことを絶えず欲望しているのかもしれない。それはほんとうにまことの生活のものなのだろうか? もう少し具体的に言うなら、私たちがあえて大学に入学し、エリートとしての「就職活動」を行い、高度な経済人として生きていくことが、私たちの宿命なのだろうか? それは階級復帰であることは言うまでもない。しかし、そうしなければ生き残れないという強迫観念を、少なからぬ人は捨てやることができないまま卒業していく。なぜ私たちはこうも駆り立てられるのだろうか。卵巣の市電に乗り続けながら社交を続けて終わる人生でなければならないと私が思うのは何故なのか。遡らなければならない。神秘を開き神秘を現実的なものとして回収するために。