20220426_あるきはじめる大学(#ある大)_代表挨拶
私、鷺志緒が代表を務めている「アドソキア」で、時計台大ホールを借りたイベント「あるきはじめる大学」Opening Ceremonyを実施しました。以下に提示するのは、その際に私が発言した内容です。一部、当日の科白通りではない箇所もありますが、概ねの内容を反映しています。…………
本日はお集まりいただきありがとうございます。この「あるきはじめる大学」の運営母体「アドソキア」の代表として挨拶をしろ、と言われました。ちょっと何を話したものか考えていたのですが、思いつかなかったので、このプロジェクトを巡って私がモチベーションとしているものを話そうと思います。
「大学に出会う、街に出会う」という副題をつけました。これは、二つのことを言っているようにも見えます。つまり、一方では街が大学に、他方では大学が街に、という二つの現象を表しているかに見えます。しかし、私の意図においては、結局同じことを言っています。それというのは、どちらにおいても、大学を社会化し、大学が街であり、街が大学であるような、私たちが全く想像もしたことのないような仕方で大学ないしそこでなされる知的活動を提唱しようとしているからです。ここで大学は、街の集会場、マイケル・ハートの言うところの「コモン」に高まります。
現代は疫病も戦争も克服された、という希望的観測がいくつかの著述家によってなされたつかのま、2020年代は疫病と戦争とともに始まった。疫病は医療行政として、戦争は軍隊として、それぞれ国家と関わるエレメントであり、その動きに(たとい間接的にせよ)私たちの生活はつねに影響を受け続けます。(日本に限って言えば)「国立大学」もまた、国家との従属関係の中で成立し、そして現在もその中で生き続けています。その極致に「大学ファンド」があります。しかし、ボローニャやパリで、あるいはベルリンで始まった「大学」がそうであったように、国家とは従属で結ばれるものではありません。国立大学の多くは(始原的に)国家から莫大な資本を獲得して建設され、今なお国家資本との結びつきとは切っても切り離せないかに見えます。その中で私たちは、ある意味で国家資本に利するべく必要以上に労力を割き、研究を制限しています。学振や科研費の書類などは数ある例のうちの一つに過ぎません。ところで、大学はたんに国家から無条件の価値を供与され、なおかつ自らの活動について自由である「特権」的な場所にほかならない。私たちが混乱するのは、大学がこの特権と同時に従属を擁しているからです。しかし、大学がより豊かな知的活動の場所となるためには、従属の解消だけでは済まされない。
私たちには国家とは別の結びつきの中で「大学」を把握する余地がある。私たちは、大学で仕事し学んでいるはずが、いまだ大学の社会的存在を捉え損なうことをやめない。それと同時に、私たちはあらゆる教養=形成 Bildung を大学でやればよろしいと思い込んでいます。大学で学べば多少賢くなるだろう、成長を得られるだろうと。実を言うと、私たちが大学を通して生活していくうちに明らかになってきたように、多くの学びは大学で獲得されるものではない。むしろ大学から周縁化され、社会をうごめいている潜在的な語りの各々に特異的な強度があり、私たちはそこから多くを学んでいるのだ。知について起源Ursprungではなく発明Erfindungという言葉を使った点でニーチェは全くもって正しい。大学に知があるかに見えるのは、あくまでも大学に知があるという幻想がゆえに大学と大学人に知が集積されただけのことだった。私は真理を語っているかに見えるのは、私がこの教壇に立ち、語っているからです。もちろんこの倒錯を克服するには、一筋縄でいかないでしょう。大学をめぐるこの成長神話を私たちは錯覚として解きほぐし、潜在的であり続けた知を私たちは育んでいかねばなりません。
したがって、私たちは次のことを目指さねばならない。「アドソキア=あつまろう」という号令を掲げ、社会的な流通の間隙や境界線に止まらざるを得ない、まだ見ぬ他者たちとの出会いを交わすことを。その実践が大学で実行されることを、私たちはいかなる躊躇いもなく受け入れる用意があります。「哲学との交流は人生の日曜日と見なされうる」と言ったヘーゲルをはじめ、近代のプロイセンドイツで大学が成立する頃、多くの著述家が「人生の日曜日」というアイデアを考えていました。それは私たちの労働や生活で看過している規定を捉える現場への要請に他なりません。今日、私たちが社会的意識として捉えている「大学」の規定性を乗り越え、社会的存在として私たちの「大学」との関わりを把握し、そして「大学」を根本において——諸個人にそくして——捉え返すこと。
ここで私たちが「街と大学」というテーマを打ち立てるのは、必ずしもとっさの思いつきでできているものではありません。文字通りに私たちはuniversitas、すなわち「一に舞い戻ること」を目指そうとする上で、私たちは否定的契機としての「街/大学」という区別を極限まで追いかけなければならない。その末に、私はここで次のように宣言することができるでしょう。「大学」は歩き始める。いつ始まるかわからないこの出来事を、私は一つの祈りとして提示するのです。私が一つだけ言えるとしたら、ただ、この「アドソキア」だけなのです。私は個別にあなたに呼びかけている。いや、私自身なのかもしれない。しかし、ここで私は集まることを強制するのではない。ただ単に、社会的意識の間隙や境界線のただなかで彷徨えるひとが、自分の「主体」を概念把握し、同時に集まれる場所を大学に創出することを待望するとに過ぎない。主体、それは見いだされようとしてついに発見されないものです。それこそ間隙にしか見出され得ず、しかし発見されようとするとすぐに見過ごされてしまう残像です。人生のうち生産過程に属する労働の時間にも、「主体的」という言葉が使われますが、それは残像に過ぎないのです。レンズの内側にあるものを、私たちは日曜日に探すことができるだろう。それはひどく退屈でつまらないものかもしれない。あれか、これかという二者択一ではなく、リゾームとしか言いようのない何かであり、それゆえに捉えがたい。しかし、うまくやっていくことなら多分できる。そのための空間を、集まるための空間を、まだ見ぬ地平を、大学に待望する。しかしその空間、地平は、現在の大学が現象しているような仕方でのツリーではなく、むしろリゾーム的なものだろう。複数的な磁場のなかで。
アドソキア、アドソキア、私はそう呟きながら、この挨拶を閉じよう。
京大保健診療所問題によせて
保健診療所があれば予約なしでも当日初診で診てもらえたはずなのに、それが無いと、一番相談したい時期にただ一人で耐えることになります。また、学生が抱えやすい困難やその対処法をよく知っている医者に診てもらえるだろうという安心感もありません。
福祉行政の行なう監督と事前の配慮が目的とすることは、個人を、個人的な目的の達成のために存在している一般的可能性と媒介することである。福祉行政は街路照明、橋の架設、日常必需品の価格措定、ならびに衛生に対して配慮しなければならない。*4
私がこの講演で示したいと思っているのは、実際、生存の政治的ないし経済的条件は、認識の主体にとって遮蔽物でも障害でもなく、それを通して認識の主体が、したがって真理の関係が形成される当のものだということ、そしてそれはどうしてなのかということです。*9
*1:どうやら歴代最長内閣の総理大臣だったらしいが、ここでは問題ではない。
*2:どうやら学生担当理事を歴任していたらしいが、やはりここでの問題ではない。
*3:残念ながら、それらを荒唐無稽だと断ずる人々が跋扈している状況には、甚だ嘆かわしいという他にあるまい。世の中簡単には変わらないものだ。
*4:ヘーゲル、『法の哲学II』、藤野・赤沢訳、中央公論、2001年、189-190頁。
*5:ibid.
*7:私自身入手していないし、今後読むこともないかもしれない。
*8:『フーコー・コレクション』第6巻、筑摩書房、2006年、21頁。
*9:同書、33頁。
*10:松本俊彦、『自傷行為の理解と援助』、日本評論社、2014年。
*11:同書。
前略 20210929
※致命的な誤字脱字があったので、訂正。
何か見たついでにこの記事を読む。「なぜ、人間だけが家族と共同体という、相反する論理を持った社会を作れたのか。そこには文化ではなく、人類が類人猿との共通祖先から分かれ、独自な進化の道を歩んできた生物学上の理由が潜んでいる。」という設定の下での行論のようだ。とりあえず順を追ってみていく。
まず、出産に長いスパンを要する類人猿の生活史戦略に多産を掛け合わせることで、「家族と共同体からなる人間独自の社会組織を作り〔……〕70億を超える人口を抱えるまでに発展する素地を築いた」とあるが、ここは注意しておきたい。この戦略だけではよくて1億程度しか増加しないはずなので、他の要素が必要のはず。なるほど、著者は単純食性では種としての生存ができなかったことを挙げ、多産によってこれを克服し、霊長類の繰り出すことのなかった草原地帯に進出したと述べる。だが、年毎の世界人口増加量を見ても「70億を超える人口を抱えるまでに発展する」には早くとも19世紀を俟たなければならない。結論を急げば、資本制の下で進行した産業社会の中で決定的な人口増加が起こったわけであり、これが決定打となる。すなわち、生活史戦略と多産のシナジーは、現代の人間社会に至るための必要条件ではあっても十分条件ではない。あくまでも些事に思われるかもしれないが、この記事ではそれなりに重要な論点となる。
続く箇所では人間の祖先が草原に出た場面が描かれるが、省略。
続いて、霊長類が共有してきたインセスト回避(育て親と性交渉しない)を巡って解説が進む。一般の霊長類の場合は、制度に頼るまでもなく行動の段階でインセストを回避することに成功している。霊長類の場合は実際の家系にかかわらず、非母系社会単位で一つの共同体が形成されるが、母系家族で子育てを通してインセストが回避される一方、父系家族ではインセストが回避されない。これを回避するために、メス個体が非母系社会の間を移動することになっている。だが、家族と共同体が混在するホモ・サピエンスの場合は、インセストを回避するための行動をしない。これを避ける制度が必要になってくる。すなわち、インセスト回避が「制度として必要だったのは、複数の家族が集まって共同体を作り、子育てを家族間の共同作業としたから」だと著者の推察するところである。
以上の叙述を踏まえ、著者はインセスト回避という条件下で性別役割が個体毎に代替可能であり、その条件ゆえに人間家族が後天的に形成され多様になることを確認する。
是に於て、注目すべき箇所がある。長めに引いておこう。
人間の家族と共同体は、類人猿から引き継いだゆっくりした子供の成長と、危険な環境に暮らして獲得した多産を成り立たせるための社会組織である。そこでは外婚制を維持するためにインセストを制度化して、女性の移動を促進する仕組みを作り出す必要があった。しかし、もともと生後の子育てを介した経験によって後天的に作られるこの性向は、育ての親を重視した代替可能な家族を人間にもたらした。
記事中で確認されたように、霊長類の生活史戦略と多産のシナジーを成功させるための社会組織として、人間は自らの家族/共同体を構成する。この家族/共同体はそれ自体が混在するためにインセストを制度化する他になく、それによって意図的に女性を移動させてきた。これが逆説的であるのは、生みの親ではなく育ての親の関係によって家族が規定されるためである。一般の霊長類の場合は、育ての親の場所は共同体にあった。しかし、家族/共同体の混在する人間においては、まずもって家族の成立段階から親が後天的に生起される。子供の生まれる前から親が最初からあるのではなく、子供が生まれた後になってはじめて親子関係が生成されるのだ。著者はあえて主張していないが、この反転こそが人間社会において本質的である。しかし、この時点で著者が看過していることだが、我々は次のように言わなければならないだろう。その家族はもはや自然のものではなく、共同体の中で規定されている制度の上で生成された、人工的・文化的なものではなかろうか。我々の家族成立過程においては、いかなる本質主義も、いかなる自然主義も機能しうるだろうか。
それにもかかわらず、ジェンダーフリー社会について著者は「家族と共同体が人間に独特な繁殖と成長の特徴によって生み出されたという進化の歴史を忘れなければ、子供の成長に支障は起こらない。まさに、人間の自然と文化をつなぐ社会を構想するところに、現代のジェンダーを考える意義はあると思う」と認定し、記事を閉じている(強調引用者)。この記事で「自然」という語彙が現れたのは、この箇所を除けば冒頭の「ジェンダーという自然と文化をつなぐ概念」という箇所の一つだけであることに注意されたい。これらの「自然」という語彙の使用は、上野千鶴子の『家父長制と資本制』(岩波書店)を通してジェンダー論をほんの僅かにかじった程度の私でさえ違和感を禁じ得なかった。明らかにジェンダーと呼ばれる概念は「社会的・文化的な性差」であり、自然とは独立したものである。つまり、「自然と文化をつなぐ概念」としてのジェンダーなるものはほぼ名辞矛盾に等しい。インターネットの字引きさえ引けばすぐに誤謬だとわかるような部分を、わざと残しているあたりに、著者の策謀を邪推せざるを得ない。
先ほどわれわれが検討した箇所を踏まえるなら、家族はすでに社会の基礎単位でありながら、共同体の中で規定された制度の上で形成された人工物であり、とりわけ育て親は代替可能なものとして反転されている。著者は「血縁関係のない親でも、片親でも、同性婚の親でも、家族と共同体という共同子育ての仕組みがあれば」子供が健康に育つと補足はしているが、著者自身が根拠としているのはあくまでも女性の移動である。先ほど引用した箇所を再び引いておく。「外婚制を維持するためにインセストを制度化して、女性の移動を促進する仕組みを作り出す必要があった」(強調引用者)。すなわち著者がいくらP/Cに配慮したエクスキューズをカマしていようが、著者の論拠として導かれるのは女性を贈与の媒介物とみなすホモソーシャルでしかない。
また、冒頭でも確認した通り、近代の人口爆発は自然に成立したものではない。人口爆発は明らかに、家父長制とそれと共謀関係を結んでいる資本制の要請から、一夫一婦制が敷かれ、そのもとでの労働力再生産が行われたことによる。ここでもまた家父長制という形態によって現れるホモソーシャルが前提となっている。否応無くホモソーシャル的社会を作らざるを得ない人類の生態学・人口学の知見をもって「現代のジェンダーを考える意義」として「人間の自然と文化をつなぐ社会」という構想をブチあげることは、そもそも文化に接続するための「自然」が何のことか明らかでないことも含め、全くもって意味が通らない。
ここまでずっと著者名を明かさなかった(リンクを踏めばすぐにわかる)が、同記事の著者は「進歩的な」人物として某大学前総長に就任された人物である。この人物は退官したのちも同大学に出講しにくるという。何かといえば「ジェンダー論」だそうだ。霊長類における性の多様性を講義するということだが、ジェンダー論講義を行う講師としてこの人物を選ぶのは、果たして適切な人選と言えるのか。またここでは触れないが、同記事の著者が早朝をしていた当時、同大学は戦前の植民地主義的研究をめぐって訴訟を受けている。これについて、当時総長としてのいかなる弁解もなかったことは、明らかに「進歩的」というキャラクターからは程遠いと認めないわけにはいくまい。
「多様性は自然から見ても本質的だ」という主張は通俗科学などで散々目にするが、これらは性(ジェンダー)とその抑圧構造が社会的に構成されたものであるという前提が欠落しているという一点において、特別な有益性を持つものとは言い得ないだろう。むしろわれわれは次のことに焦点を当てているはずだった。類的存在が抑圧、価値転倒(搾取)において形成され、あるいはアイデンティティとして登記され、あるいは完全に忘却される、等々、その概念形成の過程を歴史的(かつ、物質的基盤をたより)にした分析に基づいて明らかにしていくこと。超歴史的な多様性なるものは存在しないということをあえて提示することは、本稿を閉じるに当たって一定の価値をもたらすだろうと思う。
通り過ぎてきたもの #1 廃墟のあとに——総長選考・自由化・エクセレンス
「そろそろ総長選考の話をしよう」と言って、結果として一回書いただけで放置したエントリがある。日付には2020年7月と書いてある。勢いで書いた文章だ。いずれ牛乳の賞味期限と全く同じ程度に、数週間で枯れゆくものだとわかっていたものだ。プレーン味のグラノーラにレーズンを流し込んで使ってしまいたくもなる。だが私にはそんな都合の良いグラノーラはなかった。台所を探したって全部去年で賞味期限が切れていやがる。すなわち、使い余して腐らせたものだ。なかんずく都市において腐ったものは、アスファルトの上でハエを集らせるばかりであるかぎりの害悪なものでさえあるが、土壌に返すことがあるのなら、多少の肥沃にもなるだろう。幸い私は土塊だ。ノイズだらけの土塊だ。土塊にまみれ、土塊の菌類たちにどろんこ遊びをさせるうちに、何年かすれば多少の数ミリグラムくらいは価値のあるものが出てくるだろう——多くはくずにさえなってくれることのないものだが。
レジュメとはフランス語で「切った」ものそのもの、すなわち「切る」という過程の残余に相当するものであるが、私たちは「切る」過程、すなわちテクストに書かれていることがらを分解し、消費し、エネルギーに換える過程をすぐに適切なことばで言い表すことができるのだろうか。レジュメは端的に切られたものでしかない。にもかかわらずレジュメはそれ自体新しく「切る」ことを想定する。したがって、「言説の事実の他に事実はない」というラカンの言を俟つまでもなく、私たちは次のように言わなければならないのではなかろうか。「切る」レジュメの他にレジュメはない、と。
2020年の総長選考の話題は私のtwitterアカウントのタイムラインを盛り上げたが、私はというと(コジェーヴを想定した)権威の一般論を話す限りに留め、黙り込んだ——少なくとも、各種啓発や候補者の選り好みについて表明することはついぞなかった。それは、総長選考の論議が確実に現実化するのは本選考が終わって以降だという確信があったためだ。そもそも大学の総長とはある意味連邦国家首相のようなもので、法も習慣も異なる学部の寄せ集めをなんとか束ね、外部との均衡を保ちながら(独法としての)「利害」を獲得するためのあらゆる機微が求められる。あえて偽悪的なことを言うなら、総長選考会議の規定のもと「正統に」当時のプロボスト——ある種の事務次官的な立ち回りを求められる立場だ——が選ばれたのはこの場合において完全に正しく、彼が選ばれたこと自体は全く問題にならない、とさしあたり言ってしまえるかに見える。あくまで傍証であるが、文芸理論研究者ビル・レディングズの遺作『廃墟のなかの大学』においても、現代の大学においてもっとも重要な役職として、プロボストが掲げられている。レディングズの叙述はラディカルでありながらもかなり悲観的だ。あえて私たちもレディングズにしたがっていうなら、プロボストが総長にそのまま流れ着くのはある意味で必定でさえある。たとえ大学の総長に対する必要を満たすだけの、ガバナンススキルや政治的力関係において彼が優位であることが承認され、その反映として総長選考規程に基づき正当に選ばれたにすぎない。もちろん実際のところは部局内や部局間で得票を狙ったロビイングがあったと思うのが素直である。とはいっても、総長ないし学長と呼ばれる立場の人間に課された職務を見る限りにおいて、プロボストがそのまま総長に選ばれたとしても、なんら不思議なことではあるまい。すなわち、「国立大学法人京都大学の組織に関する規程」(2004年制定)および「学校教育法」に言う——
国立大学法人京都大学の組織に関する規程
第2条 国立大学法人京都大学(以下「法人」という。)に、役員として、その学長である総長を置く。
2 総長は、学校教育法(昭和22年法律第26号)第92条第3項に規定する職務を行うとともに、法人を代表し、その業務を総理する。学校教育法
第九十二条 大学には学長……を置かなければならない。……
③ 学長は、校務をつかさどり、所属職員を統督する。
したがって、大学の学務や事務を司るあらゆる「所属職員を統督」し、かつ「法人を代表し、その業務を総理する」限りにおいて、誰が総長になっても咎める理由を私たちは持ち得ない。レディングズの論を俟つまでもなく、大学はもはや空虚である。大学の対象とされてきたフンボルト的「文化」も市民国家の形成を基礎付ける「教養」(ヘーゲル)のすべてがナショナリズムの加担にしか役立たないことが明らかになった近代以降の大学にあっては、もはや大学が持つべきとされるいかなる特異的な対象もない。すなわち私たちに向かって現前するような対象は不可能であり、ただ私たちにとって大学という一つの社会体を構築するいかなる物語(ナラティブ)も働かなくなっている。私たちはただ漠然と、空虚なコンシューマリズムを内面化した形で、パッケージ化された「文化」とやらを享受し、チャラい人間関係と、ちょっとばかりの放埓さと、空疎な社会意識を投げ散らかすことをもって空白の青春を埋め合わせることで満足する他にないのだろう。そうして最後は長蛇の列をなして記念写真を撮りたまえ! こんな戯けた道楽、私たちの市民社会の成員であることを乗り越えた一人の社会的人格において内在すべきはずの社会的知性を等閑にするばかりの空疎! 我々はもはや新たなパロディックな〈父〉を前にいかなる抗議をも諦め、彼の声に享楽するに徹する他にないのだろうか?
したがって、総長選考規程に先立つあらゆる諸前提が問題なのである。ところで、屡々学生に直接的な参政権が与えられていないという点で「正当な」選考が行われていないことを問題視する意見を見かける。しかし全く正当に行われているがゆえの不都合を指摘する意見は(私の捕捉しているごく少数を除いて)、ほとんどない。あえて偽悪的に言うなら、大学が不徹底であったことは一度たりともない、むしろその徹底が本来的な用途に消費されていないことが問題なのだ。大学の「自由化」の徹底がその理事にもたらしたのは、碩学大儒を匿う太っ腹さではなく、五年という極めて視野狭窄なスパンからなる、「見える化」された清潔感のあるクリーンな「中期目標」を作成する才能しかない。したがって、可視化を、クリーンな選考を!と言うことが総長選考を我々の望み通りに変えることは、一切期待できない。なるほど可視化された行政が求められた。だが可視化や自由化の要求は、よく知られるように今般のネオリベを許している。もちろん可視化や自由化の運動はそれ自体評価されるべきだ。しかしそれが、野放図の階級的な見境もない無制限なものになった途端、悲劇に転ずる。いみじくもスティグリッツが指摘しているのは、経済的な階層間の格差と情報における格差との間に強い相関があることだった。1970年代の利潤率の恢復を目的としてなされた数多くの自由化は、アッパーミドルにとってはほとんど自明であるものでしかなかったが、そうでない層には害悪極まりない階級復帰としてしか映りようがなかった。そればかりか、中間層に滑り込むことのできない層の要求でさえ、利潤率の向上のための蓄積に利用されているのだ。もちろん新自由主義の消息は地政学的な諸相をもって歴史的に明らかにしなければならない*1ところであるが、少なくともはっきりしていることは、可視化や自由化の要求があまりに抽象的であればあるほど、管理者にとってはより資本都合な施策を行うことが可能になるということだ。要求が裏目に出ないとどうして断定できようか? 我々が素朴に抱く「正当な」選考は、むしろ現行の体制の実現するところである、現体制の選考は我々が本来大学側に要求した通りのものだ、と言わなければならないかに見える。だが、これではないと思う。もう少し掘り下げよう。
聞こえの良い旗印(「規制緩和」、「脱官僚」、等々)とともに自由化、市場化が勧められ、可視化、一本化等々を行っていった結果、皮肉にもかえって(ヴェーバーによる)全ての部分が予測可能、代替可能な全体としての官僚制*2が加速していくことは、とりわけ日本の行政においてもなお顕著だった。それと同様、現代の大学の行政はもはや、官僚制以外のいかなる行政も想像できない残酷な事実性に立たされている。それは同じ大学に所属する学生においても同じことだ。我々は真に自由なるものを観想することを希望するが、実際には口頭から発せられるものすべてが官僚制の言葉として回収されるのが現状である。そもそも我々自身が官僚制にあまりに慣れっこなために、あえて「合理的に」そうすることを選んでしまう。その根拠を特定するにあたって有効なのは、資本投下の対象がどこにあるかを考えることである。(私の在籍しているところが京都大学なので、京都大学の事例に限るが)一大学の事例で運営費交付金を充てるために施行されている「アクションプラン」の内訳を見ることは特に重要だ。「事業報告書」(2019年度)の著すところによると、「第3期中期目標・中期計画を見据えた改革の加速期間とされる現在、大学が直面している状況を正しく認識した上で、その改革に向けた指針「WINDOW構想」を着実に実現していく」ことを目的に京都大学重点戦略アクションプラン(2016-2021)が策定されている(p.3)が、事業の多くには、(特殊のものであるかに関わらず)制度=機構を成立させるあるいは維持させることを目的として設立されているものが少なからずある。法人としての必定といえばそれで落ちる話ではあるが、それが教育の場としての成功に役立つかどうかは別問題だ。『シャドウ・ワーク』などの著作で知られるイヴァン・イリイチは、教育の場を制度によって基礎付けることに起因する資本投下について、「学校」という制度が破壊的であることを踏まえて次のように批判している。
〔学校は〕世界の最も急速に成長する労働市場でもある。消費者を操作することは、経済学の中でも発展しつつある主要な部門になっている。裕福な国々においては、生産コストが減少するにつれて、人々の消費行動を特定の方向に導くという巨大な事業にますます多くの資本と労働が集中されるようになってきたのである。過去数十ヵ年の間、学校制度に直接に関連した資本投資は、国防費の伸び率さえをも凌ぐ速さで急速に増えた。……学校のもつ破壊性が認識されないで、その破壊性を緩和するためのコストが上昇していくかぎり、学校は合法的に浪費をするための機会を無限に生み出していくのである。*3
この「人々の消費行動を特定の方向に導く」という点はレディングズの情況分析とともに捉えることができるだろう。レディングズもまた、「エクセレンス」の審級が大学ガバナンスの領域で闊歩する一方で、大学に所属する学生の間では一定のコンシューマリズム(消費主義)が蔓延っていることを指摘している。
すなわち、イリイチの濃縮された議論を大学に限定して展開するなら、次のように整理できるだろう。1/a.いわゆる先進資本主義国家(残念ながら日本もそのリストに含まれるべきだろう)においては、生産過程よりもむしろ消費過程が注目され、国民の多くが消費過程(いわゆる第三次産業)に投下されるようになる。それゆえに1/b.「頭脳労働」とされるものが大学教育の要件になる。これに相まって、2/a.周辺化されている労働力が顕在化し、2/b.大学の対象としての「文化」と呼ばれるものに固有のナショナリズム的な性質が暴露され、その価値が宙吊りになる。したがって3/確信犯的に消費を促すためのコンテンツ化とそれを成立させるための資本投下が大学の中で成立する。コンテンツ化といったのは、次のようなことを指している。すなわち、無条件に誰もがそれを良いと思える価値判断が可能になるカテゴリで構成されていることである。つまり哲学や文献学などのたかだか理性の立法に訴える他にない学問領域(カント)でさえ「有用性」の契機によって評価されることがコンテンツ化の実相に他ならない。この点はレディングズが激しく糾弾するところの、ユネスコの報告書に掲揚された「エクセレンス」のカテゴリと、質的に全く同一である。
すこし掘り下げよう。このエクセレンスの蔓延ないしコンテンツ化は、文科省の指導によって存立している国立大学法人においても例外ではない。そればかりか、文科省の指導は国立大学法人を一つの「経営体」として運用することを画策している。従来の枠組みにあっては、国が大学に「中期目標」をトップダウンに提示する上意下達の方式が採用されていた。文科省は、「令和4年度〔ママ〕から始まる第4期中期目標期間を、国立大学法人の機能を拡張し、真の経営体へと転換を図る移行期間と位置付け、必要な環境整備を段階的に行っていくこと」*4として戦略目標を定める。文科省は以上の枠組みを図案化している*5。
図だけを見ると国から大学に目標を丸投げして大学に仕事をさせる「上意下達」のヒエラルキーから、国と大学がイーヴンの関係になり大学が自ずと仕事をする「自律的」なシステムへと変貌を遂げているかに見える。しかし、ここで深刻なのは、国と大学との権力関係が依然として保存されていることである。一つは画一的な指標(データベース)を基にした中期目標素案の作成である。一見すると「大学の自治」を守っているかに見えるこの過程は、大学個別の状況を踏まえた労働の価値への転換が発生している。すなわち、大学の勝手で規定するにすぎない経営方針が、中期目標の媒介となり、国家の規範や行政に基づいた精査の(間接的な)対象になる。また、「中期目標を提示」する側が依然として文科省側にあるかぎり、文科省側の判断によって容易に従来の上意下達型と同様の実態にすることは極めて容易である。そればかりか、余計に権力関係を強化するものになるだろう。それというのは、大学側に中期目標素案を作成させるにもかかわらず中期目標を提示する決定権が依然として文科省側にあるかぎり、大学から持ち込まれた中期目標素案を金の卵にもちり紙にもできるのは、ひとり文科省だけだからだ。この枠組みから大学が、大学個別の生産を無視した端的に国家的な企ての下部組織として迎え入れられるまでは、ほんの数手である。それは老カントが夢想した真理と有用性という二つの契機の争いなどない、まったくもって「クリーンな」上に「清潔な」大学ガバナンスの出来である。有用性という目的の国が到来する。なんと素晴らしく空疎な和平だろうか! 端的に大学が法人化された結果焼け野原と化したあと、やってくるのは国家に依存する経営だった。廃墟には空疎な「エクセレンス」の外皮に覆われた、パロディックで、哄笑に値する、「理念」のダンプがやってくる。
この限りにおいて大学の「文化」それ自体は、大概執行部の方から迎え入れられるものでしかなくなっている。決定された文化、商品としての形態を維持し、交換過程に取り入れられる文化だけが迎え入れられる。これは一面的な資本制批判で済ませられるものではない。この反例としては、大学内の自由とされるものによって行われる活動のどれほどのものが公正であるかを考えるだけで十分である。すなわち、大学内で生起している市民社会的な——あるいは諸個人の意向によって自律的に成立すべき規範からは疎外された形態に基づく——活動が、大学内でどれだけ機能しており、そして看過されているだろうか。あらゆる周辺化されたものを対象化する営為それ自体を批判することをしない、少なからぬ社会科学的な言説がこれに該当するのではなかろうか。科学に内在する疎外形態を批判的に検討する土壌は、「有用性」の観点からは抜け落ちてしまう。
いみじくもバシュラールによって明らかにされたことは、端的に知とされるもの、それは科学的な知の言説においては一つの疎外形態によって表現されているということだった。すなわち、科学は諸個人の直観的な認識を認めるものではない。そうではなく、むしろ数学的に単純化された、カテゴリとして適切な(有用な!)ものを通した認識をのみ認める。それなしで科学の成立しえないような諸範疇はそれ自体が暴力的な活動であるに他ならない。それゆえに科学が向けられる眼差しは真理の契機においてのみあるのであり、それはカントにとってみれば哲学部の仕事に他ならない。したがって、大学の自由を端的に認めることはできないだろう。そうではなく、大学が自律的な立法に基づき、科学に内在する諸矛盾を止揚し、真理の契機を開く余地が必要なのである。それはすなわち、端的に「同意」を先送りし続けることであり、「自明ではない」ことを絶えず確認する実践を行い続けることに他ならない。レディングズが提唱した「不同意の共同体 community of dissensus」は、是に於て「コレクティフ」(ジャン・ウリ)ときわめて接近する。
私たちは「本来の」自由ということによって、それとは全く別の絶対的な自由への想像力を捨象してしまってはいないだろうか。われわれは制度の構造論にあまりに麻痺し過ぎて、われわれ自身が求めるべきものを、完全に見失っているのではないだろうか。リヴィジョニズムに降れと要求するのではない。逆である。つまり、制度まみれの日常が作る覆いを取り払い、われわれのいかなる「論議」を解体し、欲望や直観に光を当ててそれらの最もラディカルなモードを暴き出し、もって自由の想像力の布置を発見しなければならない。ところで、われわれは偶有的な被造物である限りにおいてそれ自身に愚劣を持ちうるものであり、われわれの分析はその愚劣を発見するだろう。是に於て自由は可能的愚劣への隷従であるという警句を与えることは、いかなる大衆迎合主義への容認する余地を認めることなしに、真の自由への道を開く。
いみじくもハーヴェイは新自由主義成立に関する経済地理学的な分析において(『新自由主義』)、権利の概念こそ私たちの再検討すべきものであるという提言を残して自らのテクストを終わらせている。グレーバーもまた、中央集権的、上意下達的な制度(いうまでもなく、それは官僚制の持ち物だ)に依存しない自由な言論空間の場を想起する。これらの著述家たちの提言を踏まえて、私たちもまた、自由を検討すべき段階に至っているのかもしれない。すなわち、極論からすれば、主権なき自由をも含めて私たちは自由を考える必要があるのだ。主権を他者の大地に譲ることもまた私たちの自由のリストに含まれている。有用性の有無にかかわらず、同意に対する一つの諦観を保ち、その中で評価に関する多くの「根拠づけること」それ自体を模索する運動をやめないことに、一つの賭け金を置く余地が残る。この不同意に向き合うことについては、次の拙稿につなげようと思う。
*1:この点において優れている著作として、デヴィッド・ハーヴェイ、『新自由主義:その歴史的展開と現在』、渡辺治監訳、森田・木下・大屋・中村共訳、作品社、2007年、を参照。
*2:私には「官僚制」について若干の加筆をする義務が課せられているものと思われる。さしあたり「官僚制」とは「再現可能性」と「計算可能性」によって規定される執務で構成されており、それ自体で閉じているあらゆる機構の形態を指すものとする。(たとえば行政学や法学の試験をパスすれば)誰でもできることが保証されている、かつプロジェクトの進行や成果が計測可能であるような仕事をする、一つの閉鎖系としての官僚制。すなわち官僚制においてはそれ自体自律的な機構 institution である。そしてそこでなされる仕事のすべてにおいて、プロジェクトとして着実な目標と利益が成立し、それらが確実に獲得できることが保証されていることが要請されている。とりわけ後者の保証を守るために、官僚制的な機構は多大なる責任を負わされる傾向が非常に強い。
*3:イヴァン・イリイチ、『脱学校化の社会』、東・小澤共訳、東京創元社、1977年、92頁。
*4:文部科学省、「国立大学法人の戦略的な経営実現に向けて~社会変革を駆動する真の経営体へ~最終とりまとめ【本文】」、2020年12月25日、3頁
*5:文部科学省、「国立大学法人の戦略的な経営実現に向けて~社会変革を駆動する真の経営体へ~最終とりまとめ【概要】」、2020年12月25日、2頁、を参照。
通り過ぎてきたもの #0
この街にはいけず石がいたるところにある、と彼が言う。桜の樹の下には死体が埋まってゐる、とでも聞いたかのような呆然とした顔をわたしはしていたのだろう。
いけず石と呼ばれる石がある。京都の言葉で「意地悪な」くらいの意味をもつ形容詞を冠したこの石は、京都の路地の随所に点在する。それらは撤去されることもなく、路地で自らの存在をかたくなに訴えるわけでもなく、ただ交差点の角や家の脇に置かれている。一説によると車が住居の壁を擦ることを避けるために意図的に設置されているものであるとも言われるが、これを「いけず」と呼ぶのは、自動車を運転する人にあっては、なるほど言い得て妙なのかもしれない。
新年度が始まるたびに大学には多くの新入生が集まる。新入生は明るく華やかなキャンパスライフを謳歌できる様々なアイコン(サークル、クラス、ゼミ、等々)への参加に駆り立てられる。在学生たちは、自分たちの所属する集団へと新入生を迎え入れ、組織を充実させることについてあれやこれやと画策する。利害が一致する。単に開講のためのガイダンスさえすれば良いものを、教員は学生生活のためのtipsを丁寧に話し始める。少し皮肉っぽい描写だが、これが大学の春で成立しているだいたい風景と見てよい。しかし、と思う。それらの生活はまことのものなのだろうか? ちょうどランボーが一人の未亡人に語らせる惨憺たる生活ほどではないにせよ、私たちは浮き世に行きている感を否定しきれない。
もちろん浮世を浮世として「ノリつつシラけ、シラけつつノ」るシニカルさをもって、私的生活と知の戯れにおいて自らの生を完結させることもできる。下世話な話だが、それで得することも多い。だが、そこで私たちは何かを通り過ぎている感じがする。通り過ぎて行きながら、最終的に私たちは卒業式を迎え、振袖や袴で着飾って正門前に長蛇の列をなして並んで記念写真を取ることのために大学に通い続ける他にないのだろうか?
他方、まことの生活にはルックス、コミュ力、スキル、等々が必要だ、と私たちの欠如を煽る立場がある。そしてそれらが充実すればあるいはまことの生活を獲得できるだろう、と文明の利器が手渡される(そのほとんどがApple製品であることは言うまでもない)。こうしたものの「できなさ」(欠如)を満足すれば利益が得られるという「神話」はあまりに多く広まり過ぎている。そんな日はこない、と断定的に言うことはできないが、利益とされるものの多くは、だいたい後の祭りになってからわかってくるものでしかない。合目的化された「教練」への過剰適応は、果たしてほんとうに合理的なのだろうか。またも私たちは通り過ぎていく。何を?
他者に目を向けることはある種の好奇心や冷やかしであることが多い。だがその立場で見ているのは他なるものであり、他者それ自体ではない。社会の中で跋扈する数多くの「トレンド」として消費される「他者」は依然として、それを他者として承認できる人々の側にある。美徳について語るとき、ラ・ロシュフコーは「自己愛」を引き合いに出す。換言するなら、美徳を自己愛によって基礎づける。ラ・ロシュフコーからさらに一歩進めば、「他者」を「他者」として語ること、それは一つの特権的な身振りなのではなかろうか。
他方、属性とそれが帰属するとされる物体との微妙な断絶を自然主義は容易に通り越す。少なからぬ科学が今もなお自然主義的ないし素朴実在論的なアプローチで講義される。科学の論理それ自体に内在しているはずだった(存在と属性との峻別を含めた)数々の批判的な運動が、その研究者や使用者によって等閑にされることは、否定することがむつかしい。自然主義を自己愛の持ち物だと喝破することはあまりにも粗暴な論理であるが、自然主義、自己愛という二つの立場は「他なるもの」への向き合い方において共通の礎があるかに見える。
この街にはいけず石がいたるところにある。彼がその話をするまで、いけず石と呼ばれるものの存在も、それが大学のあるこの街に数多くあることも、私の知るところではなかったし、また想像しうるものでもなかった。私たちの社会では、少なからず私たちの通り過ぎてしまっているものがあるらしい。あるいは翻って、私たちは単にいけず石なのかもしれない。自分たちがいけず石であることをついに自覚することがないようにするために、いけず石を他者化し、そして石はそれ自体石として、石に帰属する本質を当てこすりして、通り過ぎていくことを絶えず欲望しているのかもしれない。それはほんとうにまことの生活のものなのだろうか? もう少し具体的に言うなら、私たちがあえて大学に入学し、エリートとしての「就職活動」を行い、高度な経済人として生きていくことが、私たちの宿命なのだろうか? それは階級復帰であることは言うまでもない。しかし、そうしなければ生き残れないという強迫観念を、少なからぬ人は捨てやることができないまま卒業していく。なぜ私たちはこうも駆り立てられるのだろうか。卵巣の市電に乗り続けながら社交を続けて終わる人生でなければならないと私が思うのは何故なのか。遡らなければならない。神秘を開き神秘を現実的なものとして回収するために。